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【小説】夏祭り納涼大会実行委員長の事件簿

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「ワッショイ! ワッショイ! 」

 樽神輿を担いで地域の大人たちが大きな掛け声をかけて練り歩く。

 威勢のいい中村さんが、神輿にホースを向けると、水をフルパワーで噴射した。

「ひゃあ」

「つめてえ」

「気持いい」

 八代祐樹は、夏祭りが昔から大好きだ。

 小学生のときには、神輿につないだ紅白の紐を引っ張るのだが、普段は挨拶する程度の大人たちが出てきて威勢よくお神輿を担ぐさまがたまらなく面白い。

 あの当時の記憶は今でも鮮明に覚えている。祐樹は32歳になっていた。小学生の時に一緒に遊んだ友達は半分以上が引っ越していった。

 祐樹も就職し、社会人になっているのだが、会社が倒産してアルバイトで食いつないでいた。初任給は大卒としても破格で、前途有望かと思っていたが、あっという間に乗っていた船が傾き海の藻屑と消えていった。

 会社近くに借りていた賃貸を引き払い、実家に戻ってきていた。昼間うろついていると、世間の目を感じる。いい年して暇そうにしているだけで罪である。

 そんなある日、

「祐樹、自治会の寄り合いに行ってきてくれ」

 と父がいった。

「めんどくさいな。なんで俺が」

「お前の方が俺より暇だからだ」

 と言われると納得してしまった。仕事がフルタイムではない自分と、週6日、12時間以上家にいない父の労働時間を比較すれば、自分が行くべきだ。

「そうよ。とにかくお願いね」

 母にも口添えされた。反論の余地はなさそうだ。

 八代家は、次期北武州自治会役員になることになっていた。自治会は9つの班に分けられ、それぞれから1人ずつ出てくるわけだ。

 

 土曜日の夜、北武州コミュニティーセンターに向かった。

 住宅団地の入口にあるこの施設は、市からの補助でできた平屋建ての立派な施設である。

 玄関には100人分くらいの下駄箱がある。左手に20人で集会ができる畳の部屋がある。右手手前がトイレと、キッチン。奥に大広間がある。何畳あるのか数えたことはないが、100人が座って飲み食いできるくらいの大きさで、カーペットが敷かれている。

 大広間の鴨居には、歴代区長の写真が飾られている。初代区長は、幼馴染の鈴原浩平の父、史郎さんである。この住宅団地を造成した飯積建設支店長であり、自らここに住み自治会の準備から手がけた、いわば北武州自治会の父である。

 歴代の区長は、60代以降が多いようにみえる。初代の鈴原さんは40歳前後だろうか。自治会ができたばかりの頃は、皆若かったことがわかる。祐樹の両親も入居したばかりの頃は今の自分より若かった。

 玄関のスノコの音で、誰かがやって来たことがわかった。3班の石田さんだ。

 石田さんの家は8人子どもがいる。もう1人で野球チームができる。確か昔兄弟姉妹に犬が加わった野球漫画があった。

 同級生の石田勝男とは中学校からの仲だった。

「こんばんは~」

「こんばんは」

 笑って挨拶を交わす。同級生の勝男とは一緒に登下校した仲だが、父親とはほとんど話した記憶がない。不思議な縁だな、と思った。石田さんは、苦労人であることが顔からにじみ出ている人だ。いつもにこやかに笑い、ムードを和らげてくれる。八代は自治会でキレそうになるとき、石田さんをみて何度も思いとどまった。祐樹の良き理解者として、自然に舵取りをしてくれた影の立役者になる。

 畳の部屋へ移動すると、すでに5人きていた。

 背筋がピンと伸びた9班の小泉武士さんは、高齢だがしっかりとした足取りでかなり速く歩く。顔はスターウォーズジェダイマスターヨーダに似ていると思った。心の中でヨーダさんとしばらく呼んでいた。後にこの人が全国に名をとどろかす本物の武神、いわばジェダイマスターだと知ることになる。

 お年寄りはみんな似ているのかも知れない。若い人はみんな同じにみえる、というお年寄りがいる。若者に言わせれば、お年寄りはみんな同じに見える。動物園の飼育係は、猿山の猿の顔の違いがわかるらしい。常人には理解できないことを可能にするのは、興味と毎日の観察だろう。

 2班に引っ越して来たばかりの川端雄一さんは、恰幅が良くて温厚そうにみえる。部屋の中を歩き回り、しげしげと見ながら興味深げに質問をしていた。

「漫画本とか、童話なんかが揃ってるんですね」

 よくみると、八代家から寄付した本もかなりあった。見覚えのある歴史漫画や小学生向けの伝記がそうだ。懐かしくて手に取りたくなった。

 外がワイワイと騒がしくなってきた。独特の下がり調子の関西弁交じりの声がする。区長候補だと父が言っていた、7班の矢田健次郎さんだ。大手家電メーカーの重役経験者で、顔に深く刻まれた皺が、今まで何回怒ってきたのかを想像させる。にこやかで良く喋るが、時折殺気を感じさせるキレモノだ。

 息子の矢田良夫とは、小学生のときよく遊んだ。彼は虫眼鏡で太陽光を集めて木の葉を燃やすのが好きだった。祐樹は火遊びは絶対してはいけない、と言われていたので思いもよらない遊びだと思ったのを覚えている。他にもケードロとか、チョロQなど祐樹が知らない遊びをたくさん知っていた。家に緑亀をたくさん飼っていたり、ミュージシャンのポスターを水張りして飾っていたりと、祐樹は矢田家に遊びにいくと、カルチャーショックを受けた。

 彼は今、ストリートミュージシャンとして活動している、と風の噂できいた。

 長机の前に座布団を敷き、各々座って一息ついた。ここから2時間以上の長丁場になるとは夢にも思っていなかった。

「それじゃ、今日は役員決めをすればいいんだっけ」

「4月の総会前に、新旧役員の引継ぎを済ませて、準備するから役員は決めないとね」

 まずは区長を決める。区長は自治会長とも呼ばれ、地域によっては町内会長など呼び名はいろいろある。

 やはり矢田さんと、石田さんが中心になって進行した。

 祐樹は、できるだけ気配を消して時が流れるのを待つことにしたが、

「矢代くんのお父さんとお母さんはどうしたの」

 矢田さんが弾道ミサイルを発射した。

 親子ともども昔から親しい間柄なので単純に病気などを心配したのだろう。

「今日は自分に行ってこいと言われました」

 暇だから、とつけ加えるのはプライドが許さなかった。

「ふうん。そうか」

「矢田さんはどうだい。会長」

 いきなり石田さんが最有力候補にミサイルを向けた。これで決まればトントン拍子に決まるだろう。

「いやいや。自分は裏方に回るよ」

「ううん。ふう」

 吉岡さんが唸った。こじれることを予感したのだろう。

 吉岡さんの家には静男という幼馴染がいる。静男は近所でも評判のヤンキーに育った。鍵っ子だった祐樹は幼い頃、よく吉岡さんの家に預けられた。お母さんの順子さんは内職の、はんだ付けをしていることが多い。八代家が支払う、預かりのお礼は内職代の5倍くらいだと幼心にも知っていた。

 源一さんが静男に対して日常的に暴力を振るうことも知っていた。幼い頃、

「あんな風に静男くんをいじめていたら、ひねくれちゃうよ」

 と言ったこともある。実際その通りになった。静男は中卒で日雇いをした後ニートになった。

 1度源一さんが運転する車で買い物に行って、おもちゃを買ってもらった記憶が妙に鮮明に残っている。

 こうして話をすると、よく笑う気のいいおじさんだが、酒癖が悪いのだろう。

「八代くんのお父さんはどうなんだい」

 また矢田さんがミサイルを向けてきた。

 初めからうちに振る気でいたのかも知れない。

 どう答えたらいいのか、すぐにわからず苦しげに唸っていた。

「うううん。ふううう」

「ちょっと連れてきてよ」

 とまで言いだした。このピンチをどう切り抜けるか、頭をフル回転させた。とりあえず、

「家にいません」

 と答えた。無難だ。できない理由を答えようとすると、ドツボにハマるのは目に見えている。ミサイルから身をかわし続けるしかない。パトリオット迎撃ミサイルはいけない。自分に跳ね返されるだろう。

 こうしているうちに誰かがドツボにハマってくれるのを待つしかない。待機策が最善だと信じた。

 自分の親のことだから、この状況を予測しているに違いない。決して役員に見つかるようなヘマはしないだろう。誰かが迎えに行ったとしてもキッチリ居留守で対処すると信じていた。

「石田さんはどうだい」

 よし。窮地は脱した。八代は心でガッツポーズをとっていた。

「うちは……ちょっとできないよ」

 さすが。石田さんの対応は完璧だと思った。理由を言わずに、間を取ることで何かを感じさせる。こんな達人レベルの反応をされると、矢田さんも取り付く島がない。

 流れからして矢田さんが、全員にミサイルを向けることになりそうだ。

「吉岡さんはどう」

「うちはあ。だめだああ」

 吉岡さんも心得ている。貫禄で踏みつぶした。

宇和島さんは」

「うちは共働きで、ちょっと難しです」

 やらかした、と思った。案の定食いつかれる。

「どこで働いてるの」

「そこの全国食材です」

「ああ。あそこ、この地区からけっこう行ってるよね。パートさんなら時間あるんじゃない」

「いや、フルタイムです」

「何とかできないかな」

 マシンガンの連射の切れ目がない。さすが矢田さんだ。自分が紙一重でこの質問攻めをかわしていたことを、はっきり確認できた。

「うううん。はああああ」

 宇和島さんは困った様子だった。追い詰められた。だが矢田さんは宇和島さんに深入りしなかった。脈なしとみると、

「んじゃあ小泉さんならいいんじゃありませんか」

 この辺で違和感を感じ始めた。始めから最有力候補を最後に残しているのでは、と思った。すると最後は誰になるのか。矢田さんの読みが注目である。

「わたしゃあ。会長なんて人間じゃないです」

 すごい。マスターヨーダは自分を全否定して対抗した。こんな荒業が自分にできるだろうか。戦士らしく自分を無にしたのだろう。

 残りは2人だ。どちらが残るのか。

「岡田さん。やってみない」

「うちはちょっと無理です」

 これでわかった。恰幅のいい2班役員を始めから狙っていたのである。

「川端くん。キミしかないと思うよ」

 やはり。プレッシャーが今までと桁違いだ。しかし、聞き方が良く知っている仲のように聞こえた。

「無理です。無理です」

 川端さんは顔の前で片手で拝むようなポーズを取ると、高速で手を振っている。全力で無理感を表現しようと必死だ。矢田さんを見ることもできないようで、机の一点を見つめて念じるように無理さを訴えている。

 しかし、矢田さんはロックオンした。追尾ミサイルを立て続けに発射した。

「忙しいのはみんな一緒だからさあ。私が手伝うから、やってよ。ね」

「いえ。仕事の方も、今大変なことになっていて。それにうちは引っ越してきたばかりで」

 川端さんはウソで取り繕おうとはしない。本当に大変なのが体全体から滲んでいた。具体的に何が起こったのかは語らないが、これだけで矢田さんにも伝わったようだ。

「うむううん。そかあ。すると、誰もおらんなあ」

「会長なしってわけにはいかないの」

 石田さんが素晴らしいことをいった。そんな発想がどうするとできるのかと感心する。

「そりゃ通らんわなあ」

 しかし、石田さんの発言がこの部屋の空気を現していた。会長候補がすべて消えた。ミステリーで言えば、登場人物が全員死んだ。そして誰もいなくなったのだ。

「んふうううう。しゅうううう」

 吉岡さんの鼻息が荒くなってきた。

 誰もが強い圧力を感じ、気配を消すことに全集中している。

 このまま長く重い沈黙が流れた。

 矢田さんは本当に困った顔をしていた。しまったな、根回しするんやったな、と心の中で思っているのだろう。

 気付くと2時間を超えている。さすがに皆疲れた。

「そか。じゃ、仕切り直しってことでまた来週にしよう」

 矢田さんが区切りをつけてくれた。ホッとした。

「んふうううう」

 吉岡さんもホッとしたことが呼吸音でわかった。

 座布団を片付けながら、世間話をして三々五々となった。

「八代くんのお父さんはでてこないのか」

 また矢田さんが突っついてきた。

「はあ。話してみます」

 とても疲れた。2時間沈黙の荒行だった。

 

「矢田さんが、お父さんに出てきて欲しいっていってたよ」

「それは無理だ。いったら会長にされる」

 帰るなり父にいうと、やはり自分を盾にしていることを確認できた。

「川端さんはどうなんだ」

「矢田さんも川端さんをロックオンしてたよ」

「矢田さんは、川端さんの上司だったんだよな」

 母に確認するように話をふった。

「そうなの? 初めて聞いたわ」

「俺はううん……誰かに聞いたぞ」

 衝撃の事実が判明した。矢田さんは退職しているはずだが、会社の上下関係を自治会に持ち込むのは下劣だ。川端さんは今頃戦々恐々としているだろう。矢田さんが根回しをしに、川端さん宅を訪れているかもしれない。

 来週も、また沈黙の荒行が待っていそうだ。

「ふう」

 ため息をついて寝床に入った。

 

 翌週の役員会では、皆早く来ていた。祐樹と小泉さんが最後だった。

 畳部屋では、川端さんと矢田さんがコピー機をいじっていた。

 やはりすでにコミュニケーションをとって、何らかの話をしたことが2人の空気から感じられた。今日は早く終わるかもしれない、と期待感をもった。

 今日も矢田さんが口火を切った。

「では役員決めのつづきをせにゃならんなあ」

「そうですね」

 川端さんが相槌をうつ。

「じゃあ、川端くん。頼むよ」

 いきなりフィニッシュブローを放つような迫力があった。

「無理です」

 先週と同じリアクションで手をフリフリしながらいった。期待外れだった。根回し失敗だったようだ。振出しに戻った。

「ふしゅうううう。うんんうううう」

 吉岡さんが気合を入れたようだ。また長丁場になるだろう。

「川端くん。仕事が本当に大変といっていたけど、どうなってるの」

 矢田さんは決戦にでた。ここ以外に活路はないとみている。

「実は、ワークシェアリングが始まりました」

「おお」

「はああ」

「ううんうう」

 一同唸った。とても深刻なワードが吐き出された。重すぎて息が止まりそうだ。

 ワークシェアリングは、事実上のリストラである。

 1人辞めてもらう代わりに、1人分の仕事を2人で分けてやってもらうことである。会社がかなり苦しいときに、苦肉の策で行われる。今ニュースで話題になっている。家電メーカーだから景気後退のあおりをモロに受けているのだ。

 川端さんの歳では再就職は望めない。祐樹は自分の立場と重ねずにはいられなかった。

 自分は32歳だし、まだまだ努力次第で返り咲ける。しかし50代では無理だ。気の毒になった。

「ううん。そりゃ気の毒だなあ。すまんなあ。立場上話をふらにゃあならんのだよ」

 矢田さんの言葉にも困惑の色が滲んだ。

「週3回会社で働いて、他はアルバイトしています」

 そういうことになるだろう。収入は3分の2くらいに減ったのではないだろうか。相当厳しい状況だった。

「ううん」

「へえ。そりゃあ」

 皆ため息と同情の空気を醸しだした。だからといって、会長を引き受ける人はいない。

「しかしなあ。来週は新旧役員が集まって引継ぎをすることになっとるんだよなあ」

 矢田さんが困り果てた表情でいった。

「それじゃあ。今決めないとだねえ」

 石田さんも危機感をあらわにした。

 またしばらく沈黙した。とても苦しい時間が過ぎた。時計を見ると、そろそろ2時間たつ。

「もう一回集まるかあ」

 祐樹は信じられない、と思った。またこの沈黙の荒行をするつもりなのか。

 気が付いたら、たまらずに口を挟んでいた。

「この場にいる全員にできない理由があって、無理だと言っているのですからもう一度集まっても同じです」

 矢田さんと正面衝突した。かまわないと思った。

「八代くんのうちは、やってくれんかなあ」

 案の定、ツバメ返しを放ってきた。

「うちは無理です」

 毅然としていった。祐樹はその場の全員の顔を見まわした。会長ができそうな人は、矢田さん、石田さん、川端さんしかいない。思うと同時に口から出ていた。

「矢田さんか、石田さんか、川端さんにやっていただくしかありません」

 祐樹は、どうにもならないことは、すぐに諦めるべきだと思った。先週からのやり取りから、この3人以外に候補はいない。リーダーシップが取れそうな人はこの3人だ。他の人には務まらないことは、祐樹でもわかる。

 矢田さんが、呆気にとられたような顔をしていることに気付いた。

「キミがやったらいい」

「おお。その手があったか」

 石田さんが元気づいたようにこちらを見ていった。

 その場の人たちが皆祐樹を見つめている。

「へ? 」

 祐樹はまったく予想していない角度からパンチを食らった。プロボクサーは、パンチがくるとわかっているから耐えられると聞いた。プロでも暗闇でいきなり殴られたら死ぬらしい。

 祐樹は失神したように固まっていた。

「うん。八代くんならいい」

「若いことは関係ないよ」

「大丈夫。ちゃんと周りがサポートするよ」

「むううう。うん。そう思う」

「八代会長。おおお」

「じゃあ、この川端が副会長をやるから。一緒にやろうよ」

「矢田さんは総務かな」

 あれ、何だこの流れ、と祐樹は遠くをみつめて思った。

 後でわかるのだが、祐樹にはなぜかリーダーのオーラがあった。自分の親より年上の人にも気後れせず、プレッシャーさえかけてしまう威圧感を、いつの間にか放っていたのだ。近所のオジサン、オバサン連中が、口々に、

「祐くんだからできるんだよ」

「八代くんがいなかったら困っていたよ」

 というのだった。

「吉岡さんが会計でいいかな」

「ふしゅうう。いやあ。家の前に会計なんて札下げとったらあ。泥棒が入るよう」

「じゃあ、札下げなくていいから」

 矢田さんが決めてしまった。

「ああ。八代くん。これでいいかな」

 まだ確認をとっていないのに、お膳立てができている。

 祐樹は長考に沈んだ……。

 自分がやらなければまた沈黙の荒行が始まる。その先に何があるのだろうか。4時間以上かけてもだれも引き受けないのだ。正直疲れた。こんなに頑固な人たちが集まっているのだ。

 定年退職したお年寄りがやるものだとばかり思っていた。それが甘かった。

 確かに自分には時間的余裕がある。それになぜか周りから期待されている。やろうと思えばできる気がする。役職だけで、思ったほどやることがない気がする。

 祐樹は追い詰められた。実のところ会長が何をする仕事なのかわかっていなかった。

 早くこの重苦しい空気から逃れたい気持ちが勝った。

「じゃあ、そうしましょう。今手伝ってくださるといったことを忘れないでください」

 決然としていった。多分周りの人がいろいろやってくれて、あまり仕事がないだろう。これだけ経験豊富な人材がそろっているのだから。

 帰宅すると、父と母に事情を話した。2人とも全然驚かなかった。

「そうか。矢田さんを頼りにしてやっていったらいい」

「そうね。私もでられるときにはでるから」

「まずは総会だな。やるしかないぞ」

 これから何が始まるのかまったくわかってないが、大したことはないだろうとなぜか安心して寝てしまった。

 

 次の土曜日、旧役員に挨拶をして引継ぎが行われた。総務の矢田さんと、会計の吉岡さんの引継ぎ事項が多いようだ。会長兼区長の祐樹に対しては、簡単なレクチャーがあっただけだった。

自治会連合会の会合があって、ほかにもいろいろ集まりがある。その都度連絡がくるから、その通りやればいいよ」

 つまり自分は待っていれば連絡がくるらしい。引継ぎらしいことはほとんどなかった。

「じゃあ、総会の原稿を印刷して家に持っていくから、来週また打ち合わせしよ」

 と矢田さんが優しくいってくれた。

 後は雑談をして終わった。年寄りが多いせいか、集まると半分くらい雑談になりそうだ。

 こっちはフルタイムではないとはいえ、週6日働いて再就職のための勉強やらで忙しいのだ。雑談に長い時間付き合わされるとイライラしてくる。だが、役員の結束は大事だからある程度は付き合うことにした。

「会長! まあ、周りに任せておけば大丈夫だから」

 石田さんも頼りになる。

「分担してやりましょう」

 川端さんも進んで仕事をしてくれるので、安心した。

 

 翌日、仕事から帰ると母が、

「矢田さんが、これ持ってきたわよ。読んでおいてって」

 総会の原稿と、自治会規約があった。

「こんなに細かく原稿作ったんだ。これ読むだけで済んじゃうね」

 総会の始めの挨拶から、すべて一言一句原稿に書かれていた。一通り音読してみた。

「なんだこれ。規約の方は間違いだらけだぞ」

 自治会規約は誤字脱字がひどい。何年も見ていないのではないだろうか。

「まあ。直すのは総務の仕事だろうから、余計なことを言うのはよそう」

 と呟いた。

 

 総会の打ち合わせ会が始まった。一度読み合わせをする。会長のセリフと、副会長のセリフ。総務、会計とそれぞれある。読むだけだから簡単だった。

「そこは総務部長ではなくて、総務でいいよ。部長じゃないし」

 と矢田さんが自分で作った原稿にダメ出しをしていた。

「はい。そうですか」

 といちおう謝る。自分は一応責任者という立ち位置だろうから、何かあったら謝るべきだ。

 こうして総会が始まり、旧役員の事業報告、会計報告、監査報告が終わる。そこから新役員がひな壇に座り、役員紹介、事業計画、予算案を次々に議決していく。最後、質問の段階になって、

「うちの裏の下水が匂うので困っています」

 という要望があった。下水問題は何か所かで起きている。北武州地区は本下水ではなく、道路脇を流れていて、一部露出しているところもある。

「役員会で審議させていただきます」

 矢田さんが丁寧に答えた。近所のオジサンが、こういうとき想像を超えたプレッシャーをかけてくる。下手な対応をするとまずい。ここではイラ立ったら負けだ。

 ここに集まった100人以上の人たちの視線が祐樹に向けられているのを感じる。その視線を涼しい顔で受け止めている自分がいた。祐樹は人に注目されたり、窮地に追い込まれたときに冷静になることができる。社会に出てから人前で話すことは何でもなかったし、逆境にいつも立たされている。慣れたのだろうと思った。