魔法のクリエイターと言われる理由、お教えします

人は知る。人は感じる。創作で。

【小説】どこか奇妙なノスタルジア

ミュージシャンになる、という夢を抱いて都会へ出てから10年。夢に見切りをつけて故郷へ帰って来た。懐かしい我が家には埃が積もり、年月の流れを感じたのだった。掃除をして、様々な思い出の品を見つけ、この家から再スタートを切る決心をする。そして都会暮らしをしていた自分を思い出すと、奇妙な事実に行きつくのだった。

 

 

 故郷の駅へ近づくと、田園風景が広がっている。

 ローカル線の、ガタンゴトンというリズムが身体を揺らし、ボックス席に暖かい陽射しが差し込むと、|眩《まぶ》しさに目を細めて立ち上がる。

 日除けを半分下ろして顔に直接当たらないようにした。

 新幹線の高架下に、見慣れた店を見つけると、

「まだあったのか」

 と懐かしさに心が熱くなる。

 久しぶりに帰郷すると、十倉新田駅は小さくなっていた。

 東京の大きな駅を見てきたせいで、ひなびた駅に感じたのだろう。

 駅前の喧騒は、東京のそれとは比べ物にならないほど閑散としていて、歩道は広いばかりで薄汚れて、商店街も活気がない。

 道行く人々には、土の田舎臭い雰囲気があった。

 誰もが笑顔を浮かべて、今日を精一杯生きている、という点では都会よりずっと居心地がいい。

 夢はなくても、温かみがあった。

 実家まで田園風景の中を路線バスに揺られていく。

 田舎にしては本数が多いのは、複数の鉄道会社が乗り入れる駅を行き来するからだろう。

 この街が、明治時代には県庁所在地だったなどとは思えない。

 空が鮮やかに青く高くて、飲食チェーンやコンビニも、どこか別物に見えるのは、駐車場がやたらに広いせいだろうか。

 昔からある定食屋とか、ラーメン屋の類はなくなり、東京にもあった看板が目についた。

 市街地を出ると、真っ直ぐに整備された道路の脇に広い歩道がある。

 大きな街路樹と、小振りな植木がリズミカルに植えられ、田んぼの青々とした色彩で埋め尽くされた。

 遠くに大きな木の影と集落が転々と見え、さらに先には青い山々が鮮やかに視界に飛び込んでくる。

 バスの乗客は誰もが押し黙って、外の風景を見たり、手元のスマホを見たりしている。

 運賃表には、赤いデジタル数字で料金の一覧が表示され、その上に次の停留所が白くくっきりと見える。

 小さいころは、運転手さんの脇にあるボタンやレバーを熱心に観察して、ドアの開閉や車内アナウンスのやり方を覚えてしまった。

 乗り方も、後乗り前降りで、料金後払いが当たり前だと思っていた。

 だが、これは田舎のスタイルであると東京に出てから知ったのだった。

 

「ただいま」

 玄関の上がり口ではなく、いつも出入りしていた台所の勝手口から上がった。

 合鍵は持っているので、声をかける前に開けて驚かせようと思った。

 広いリビングの中央に大理石模様のテーブルがあり、壊れて買い足したチグハグな椅子が並ぶ。

 懐かさにまた胸が熱くなった。

 コンクリートブロックを重ねて作った靴置き場に、くたびれたニューバランスを|揃《そろ》えて、後ろ向きに上がる。

 床には|埃《ほこり》が積もっていて、|黴《かび》くさい臭気が鼻を突く。

 立派な|茶箪笥《ちゃだんす》には、見覚えのあるカップソーサーと、可愛らしいカップルが仲良く座っている陶器の置物がこじんまりと置かれていた。

 ガラスには、子どものころ貼った花のシール。

 奥の和室の居間へ入る。

 畳は黒ずんで、少し朽ちているようだった。

 本棚にぎっしりと、金の背表紙の百科事典があった。

 ほとんど読まなかったけど、あるだけで、ちょっぴり利口になった様な気分になったものだ。

 テーブルには灰皿が置いてある。

 マイルドセブンの|吸殻《すいがら》が大量にエル字に折り曲げて捨てられ、水をかけたのか灰が表面にこびりついている。

 そういえば、一度吸殻が丸ごと黒焦げになったことがあったっけ。

 燃え広がっていたら、今頃この家はない。

 それどころか自分もいないかも知れない。

 大きな液晶テレビの前に、熊の置物があった。

 祖母がふらりとやって来て、北海道のおみやげだと言ってたやつだ。

 ちょうど持っていた彫刻等の丸刀で、どんな感じで彫ったのか試し彫りをしてみた跡があるはずだ。

 熊のゴワゴワした毛の質感を、凹凸だけで表現した見事なテクニックを真似したいと思ってやったのだった。

 せっかくのお土産を傷つけて、怒られたっけ。

 サイドボードの取っ手の穴に、ひらがなカードがねじ込んであった。

 これも俺がやったのだ。

 成長の痕跡を探していると、胸に開いた隙間が埋められていくかのように、暖かい気持ちになった。

 

 両親が学費を用意していなかったために、何もせずに暮らしていた|久寿米木 響《くすめぎ りずむ》は高校卒業と同時に上京した。

 アルバイトで稼いだ数か月分の生活費と着替えの入ったカバンを持って、家賃が安いアパートに落ち着いた。

 コンビニやカラオケボックスの店員、清掃会社、ボーリング場、ゲームセンターなどで働いたが、あまり長続きせずに転々とする。

 人より秀でた技術や資格を持っているわけでもないから、経営が苦しくなるとすぐに切り捨てられた。

 そのうち登録制の日雇いのようなアルバイトで食いつなぐようになり、半分は親からの仕送りで暮らすようになる。

 木造で、|埃《ほこり》臭い安アパートの階段を上った2階部分を借りていたが、たまたま空いていた物置もタダで貸してもらえた。

 仕事をきちんとこなす真面目な性格を買われ、大家さんが持つ3件のアパートの清掃や補修、家賃野の集金をして、家賃分を免除してもらった。 生活費はギリギリだったが、一応|贅沢《ぜいたく》はできないが、生活が一応安定してきたとき、子どもの使い古しだというギターとキーボードを譲り受けた。

 楽器の経験はほとんどなかった響は、音楽雑誌を古本屋で買い、コードを弾いたり好きな曲の部分練習をしてみたりして、有り余る時間を過ごすようになる。

 ライブハウスやジャズ喫茶などで音楽仲間と語り合う連中もいるようだが、金もないし人付き合いが面倒だと感じ、足が遠のいていた。

 他にやることがないので、楽器にいつも触れていたため、コードを押さえて歌ったり、簡単な作曲をしたりもできるようになる。

 もしかしたら、と思い大手レコード会社主催のオーディションを受けてみたが、|敢《あ》えなく落選する。

 あまり期待してない、などと言いながらも落ち込み、しばらく楽器に触れられなかった。

 重い身体をひきずって、近くの銭湯へ向かう。

 電柱がブロック塀の外に立ち、側溝の|蓋《ふた》間からドブの臭いがほのかにする道を、タオル片手に空を見上げた。

 東京の空に星はない。

 周りに知人もいないし、遊びに行く金もないため、いつも独りだった。

 格安スマホをフリーWi-Fiにつなぎ、ミュージシャンの動画などをチェックするくらいで、誰からも連絡はない。

 大きな|暖簾《のれん》をくぐり、中へ入るといつものフロントのお姉さんに代金を支払う。

「ごゆっくりどうぞ」

 とマニュアル化された台詞が返ってくるのを背中で聞いて、サッサと奥へ入る。

 備え付けのシャンプーをたっぷり泡立てて頭を洗いながら、

「俺、なにやってるんだろう」

 とため息をついた。

 

 ビルの屋上にいると、時空が歪むと言われている。

 特に夜は。

 大手生命保険会社のビルの最上階から、屋上へ続く階段を上る。

 今日は晴れているので、月が正面で迎えてくれた。

 ぼんやりと浮かび上がる手すりと窓の形。

 誰もいない空間に、靴音と、呼吸音がやけに大きく聞こえた。

 屋上庭園には、天然の芝生が銀色に輝いている。

 東屋にLED照明が|煌々《こうこう》とついていて、吸い寄せられるように歩いて行った。

 小道のレンガタイルを踏みしめて、一歩一歩ゆっくりと。

 夜の冷えた空気を肺に吸い込むと、段々と息苦しくなってくる。

 幾千幾万の星は、都会の空気に|霞《かす》んで見えず、自分が目指したところも手の届かない彼方にあって、目に映らなかった。

 東屋のベンチに腰かけると、背もたれに身を預けた。

 街の灯りが下からほのかに明るく照らし、空はうっすら青い。

 夢を追って都会に出てきた田舎者には、星は見えないらしい。

 こうしてぼんやりしていると、世間に取り残されて、自分だけ歳を取らずに無駄な人生を生きているように感じられる。

 深くゆっくりと息を吸い、重い身体を起こして立ち上がった響は、何かに取り|憑《つ》かれたように縁へと歩を進めた。

 フェンス越しに、地図のような街の夜景を見下ろして、ゆっくりと息を吐いた。

 ビルの窓の明かりは、人の営みの数だけ灯される。

 耳を澄ませば、遠く車のエンジン音が聞こえる。

「あれが、東京の灯だ。

 俺が居ようと居まいと、関係なしに時は流れていく。

 何かを成しても、この灯が一つ、増えるだけだ」

 都会の景色に背を向け、東屋へと戻って行く。

 柔らかい起毛のジャケットを羽織り、またベンチに身体を預けた。

 故郷へ帰りたいとは思わない。

 だが、威勢よく飛び出してきても、結局何も変わらなかった。

 虚しい。

 明日も生きなくてはならないから働く。

 そして疲れ切って帰ってくる。

 そんな毎日が恐ろしかった。

 いつしか、|瞼《まぶた》を閉じていた。

 

 |埃《ほこり》がうっすらとリビングをコーティングした光景に、月明りが青白い光を落とす頃、響は美しさに息を飲んだ。

 しばらく立ち尽くしていたが、荷物を持つ手が|痺《しび》れてきて我に返る。

 とにかく、今夜寝る場所を確保しなくてはならない。

 階段下の倉庫に、掃除用具はあった。

 さすがに自分が知っている物はほとんどなかったが、|箒《ほうき》だけは昔のままだった。

 その箒を手に取ると、床を掃き、はたきで鴨居や家具の上を|撫《な》でると部屋全体に|霞《かすみ》がかかったようになった。

 |咳《せき》込んでマスクを付けると、また手を動かし始める。

 窓を開け、網戸を閉めるとウシガエルの大合唱が腹の底から揺さぶるような重低音を奏でる。

 外に目をやると、裏の家々は眠ったように静かで、街灯のLEDの強烈な光がアスファルトをぼんやりと照らしだしていた。

 一階の埃をあらかたゴミ袋に収め、テラスに置くと、今度は水回りである。

 キッチンには黒カビが目立つ。

 洗剤が見当たらないので、|雑巾《ぞうきん》を湿らせて|擦《こす》ると、思いのほかきれいになった。

 洗濯機が使えるのか、不安もあったが着ている物をとりあえず放り込んだ。

 こちらは洗剤と柔軟剤があった。

 一度リフォームした風呂は、割ときれいだったため、軽く洗って埃を流し、湯を張った。

 歳をとっても困らないように、湯船を浅くして、手すりのある風呂に乾燥機も付けてある。

 東京の暮らしを思えば、こちらの方がずっと恵まれていた。

 トイレは自動で|蓋《ふた》が開閉し、ウォシュレットもついている。

 風呂の支度ができるまでに時間があるので、途中のコンビニで買ったおにぎりとサンドイッチを口に入れた。

 床に座っていると、冷気が背中を少し寒くした。

「こんなに広かったかな ───」

 子どもの頃は、おもちゃでいっぱいになり、高校時代には飯を食べるだけの場所だったリビングが、テーブルとイスだけのガランとした空間に変わっていた。

 腹を満たすと、疲れも出てきてゴロリと横になる。

 風呂のモニタが、キッチンの壁に取り付けてあり、温度と時間を表示していた。

 

 翌朝、陽射しが顔に直射して、暖かさと|眩《まぶ》しさで目覚めた。

 押し入れにあった布団は、きちんと真空パックしてあったため、気持ちよくぐっすりと眠ることができた。

 最低限の食器はあるが、生活に必要な物が|沢山《たくさん》あったため、買い出しすることにした。

 キッチンまわりと洗面所回り、トイレをチェックしてメモを取り、冷蔵庫を一応調べる。

 やはり食料はまったくない。

 メモを|畳《たた》んで財布に突っ込むと、テラスに合った古い原付バイクをチェックする。

 少しだけガソリンが残っていたが、いつの物だか分からない。

 手動のポンプで灯油缶に移すと、手で押してガソリンスタンドへ向かった。

 農道には、稲穂が突き始めた田んぼから、バッタが飛び出したり、蝶がヒラヒラと横切ったりと、のんびりしたムードを漂わせている。

 突然|牛糞《ちゅうふん》の強烈な臭いが鼻を突き、左手に茶色く|襞《ひだ》のできた山盛りの堆肥が鮮やかに目に飛び込む。

 確か、この畑はトウモロコシを育てていた。

 これだけたくさんの糞を吸い上げたトウモロコシを、東京の人たちは食べていると分かっているのだろうか。

 甘くておいしい、あの味は栄養豊かな畑からでき上る、と言えばきれいに聞こえるが、この臭気を|嗅《か》いでも言えるだろうか。

 車はほとんど通らないのに、無駄に広く真っ直ぐな道の先を、豚の鳴き声と共にトラックが横切った。

 キーキーと鼻を鳴らすその声は、落ち着きがないように聞こえた。

 そうだ、この先に豚の屠殺場がある。

 近くに養豚場もあって、豚の鼻に|藁《わら》を突っ込んだりして遊んだものだ。

 好物の生姜焼きは、そんな豚たちの成れの果てである。

 東京の人間は、加工された豚肉しか知らないだろう。

 学校で、流通の仕組みなどを教わっていても、生身の豚を知らなければ、いつも食べている豚肉と結びつかない。

 田んぼに目をやると、水が張ってあるところもあって、オタマジャクシやヒルや、カブトエビがユラユラと泳いでいた。

 足元をトノサマバッタショウリョウバッタが跳ねまわる。

 農薬による突然変異で巨大化する奴もいたっけ。

 生き物の息吹を感じていると、先を急がなくてもいい、という気分になっていった。

 

 スーパーは、川の向こう側にあった。

 国道の大きな橋を超えて行くのだが、原付でトラックと一緒になって走ると生きた心地がしないので、遠回りして農道を通る。

 土手の緑の中に、黄色い花や蝶が暖かい陽を受けて輝いていた。

 水の音と風に葉が擦れる音。

 子どものころから親しんだ空気が、身体の奥に凝り固まっていたものを溶かしていく。

 ここには、人間の手を離れて奏でられる音楽があった。

 田畑にちりばめられた命と、川で泳ぐ魚たち。

 空を行く雲と遠くの山並み。

 自然に身体の中に曲が芽生えていく。

 原付のスロットルを絞ってみても、景色が雄大だからスピードを感じない。

 風が唸り、地面だけが凄い速さで後ろへ飛んでいく。

 車庫にバイクを収め、買い物袋を下げて家に入ると、持ってきたギターで思いつくままに曲を奏でた。

 久しぶりに故郷の土を踏んで、|昂《たかぶ》る気持ちを素直に歌い、コードをつける。

 それをスコアに落とし込み、弾きながら次の音を探っていく。

 物置に合ったキーボードを持ちだして、電源を入れた。

 色あせたり、汚れたりしてはいたが一応は使えた。

 指を|鍵盤《けんばん》に這わせるように動かしていく。

 弾いていて気持ちのいいメロディを紡ぎ出し、スコアに書き込んでいく。

 都会の機械的な音とは違う、生きた音が次々と産み出された。

 指が楽譜を超えて、次々に曲を奏でていく。

 流れに身を任せて、音の洪水がいつまでも続くのだった。

 子どものころからピアノやギターには親しんでいた。

 両親が音楽を趣味にしていたため、響にも英才教育を施したのだ。

 クラシックピアノの練習曲は小学校低学年ですべて終えて、自分で作曲も擦るようになっていた。

 だが東京に出てオーディションを受けるなどしていれば、|一角《ひとかど》の者になれるのでは、などとは甘い考えだった。

 多少秀でた部分があっても、肝心の中身がない。

 表現するための、核になる物が。

 10年も都会で過ごして、結局何も得られなかった。

 そんな気分でさえ、今は曲にできそうだった。

 

 玄関の方で人の気配がしたと思うと、チャイムが鳴った。

 セールスか何かかと、身構えて勝手口から顔を出すと、

「あの、ギターの音がしたものですから、様子を見に来たのです」

 と若い男が訪ねてきたのだった。

 ちょうど、上京したころの歳と重なって、親近感があった。

「昨日、久しぶりに帰ってきて、掃除して生活できるようにしたところなんだ。

 良かったらお茶でも」

 などと自然に口を突いてでた。

 都会では近所の人が訪ねてくることはなかった。

 自治会にも入らないし、近頃はセールスもほとんどない。

 人間の声を久しぶりに聞いたような気がして、家に招き入れると、顔に幼さが残る少年だった。

「音楽が好きなのかい」

 昔、近所の人がピアノやギターをやっていて、音が聞こえたと両親が言ってました。

「10年前、ちょうど君くらいの歳に東京に出て、音楽活動をしたけど昨日帰って来たところさ」

 自分と重ねて見てしまう少年は|通道 樹《とおりみち たつき》と名乗った。

 近所にそんな苗字の人がいたかと思ったが、

「5年前に引っ越してきました」

 と聞いて納得した。

 近所から音楽が聞こえた話は、引っ越す前の家出のことらしかった。

 ギターを少年に貸してやり、基本のコードを教えて、好きなように弾いているのを聞いていると、必死で音を追いかけていた時期のフレッシュな気持ちが|蘇《よみがえ》ってくる。

 東京へ夢を抱いて出て行ったとき、音楽が好きだという気持ちが|溢《あふ》れていた。

 毎日楽器に触れ、音を紡いで過ごしていたが、いつの間にか成功を夢見るようになった。

 そんなときだろう。

 無力感を感じ始めたのは。

 響は改めて自分の手を見た。

 指先にタコができて、硬くなったところに年月を感じる。

 壁にもたれてギターを一心不乱に鳴らす少年は、何もかも忘れて没頭しているようだった。

 

 ひとしきりギターを鳴らしてから、一息ついた樹が言った。

「ところで、響さんは独りでこの家に住んでいるのですか」

 自分に向けられた質問に、すぐ我が事だと感じられず、少し間が空いた。

「そうだ、昨日から変だと思っていたんだ。

 東京にいたときは、金もないし帰ってくるきっかけがなかった。

 10年も帰らないでいて、両親と連絡を取ることもなかったんだ。

 元気なのかな」

 今度は樹の方が固まった。

「元気かなって、ここが実家じゃないのですか。

 久しぶりに帰ったら、いなかったのですか」

「そう言うことになるな」

 まるで他人事のように、|呟《つぶや》いた。

「ちょっと、何を言っているのか分かりません。

 大丈夫ですか」

「そう言われても仕方がないだろうな。

 でも、ずっと気になってはいたんだ。

 十倉新田駅で降りる辺りから、記憶にある風景と、変わり過ぎていると ───」

 樹は顔を引きつらせて、心配そうな表情になって|俯《うつむ》いた。

「あの、言いにくいのですが、病気ではないでしょうか」

 努めて丁寧に、言葉を慎重に選んで言った。

 そのとき、響は目を丸くして弾かれたように跳ね起きた。

「そうだ、今は何年だ」

「と言いますと」

 顔に怯えの色を表わして樹が問い返す。

「2024年じゃないのか」

「違います。

 2054年です。

 本当に、大丈夫ですか」

 あまりのことに、響きは天井を見上げたまま立ち尽くした。

 そうか、あの時、時空の歪みに ───

 また、ギターを鳴らし始めた樹は、歌詞の断片を歌い、考え始めたようだった。

 響もキーボードに向かって、コードを押さえ始めた。

 そして、2人は手を止めた。

 響は窓の外に目をやり、耳を澄ませてカエルや虫の声を聞いて|瞑目《めいもく》する。

「ここが、俺が生まれ育った世界と別の場所だとしても、まあ、いいじゃないか」

「そうですね。

 僕も、そう思いますよ。

 音楽は時空を超えて共有できますから、きっと大丈夫です」

 ギターとキーボードのセッションを、毎日続けながら、響もう一度オーディションに挑戦する決意を固めていった。

 それは、また孤独な世界へ入っていくことを意味する。

 人間は産まれたときから一人だ。

 クリエイティブに生きると決めたのだから仕方がない、と星空へ向かって今日も呟いたのだった。

 

 

この物語はフィクションです

【プロット:ファンタジー】天界の追放者

 天界で最も好奇心旺盛な天使、セラフィム

 彼はある日、禁断の書物「パラドクスの書」を読み、異世界への扉を開いてしまう。

 それは、論理と常識が崩壊した、パラドックスに満ちた世界への入り口だった。

 天界の掟を破ったセラフィムは、翼を剥奪され、地上へと追放される。

 彼は、元の世界に戻る方法を求め、そして「パラドクスの書」に記された世界の謎を解き明かすため、途方もない冒険へと旅立つ。

 最初にたどり着いたのは、鏡写しの世界。そこでは、左右が反転し、言葉も逆さまに話される。

 セラフィムは、鏡の国の住人とのコミュニケーションに苦労しながらも、彼らの文化や価値観に触れ、柔軟な思考を身につけていく。

 次なる世界は、時間が止まった町。

 人々は静止し、時計の針は動かない。

 セラフィムは、この静寂の世界で、時間の流れの大切さを実感する。

 そして、止まった時間を動かす方法を探し求める中で、人々の記憶や感情に触れ、共感する心を育む。

 三つ目の世界は、影だけが実体を持つ世界。

 セラフィムは、自身の影と対話し、内なる自分と向き合うことになる。

 影の世界の住人たちは、光の世界に憧れを抱きながらも、影として生きる運命を受け入れていた。

 彼らの生き様を通して、光と影、表と裏、相反するものの共存について深く考える。

 次に訪れたのは、夢が現実となる世界。

 人々は、夢の中で自由に空を飛んだり、魔法を使ったり、理想の自分に変身したりしていた。

 セラフィムは、夢の世界の無限の可能性に魅了される一方で、現実との境目が曖昧になる不安を感じ、夢と現実のバランスについて葛藤する。

 最後にたどり着いたのは、無限に広がる図書館。

 そこには、過去、現在、未来のあらゆる書物が収蔵されている。

 セラフィムは、膨大な情報の中から「パラドクスの書」の謎を解く鍵を探し求める。

 そして、図書館の司書との出会いを通して、知識の重さと、それを正しく使うことの重要性を学ぶ。

 長い旅の末、セラフィムは「パラドクスの書」の真の意味を理解する。

 それは、パラドックスを受け入れることで、新たな視点や可能性が生まれるということ。

 そして、世界は一つではなく、様々な世界が並行して存在しているということ。

 セラフィムは、元の世界に戻ることを諦め、パラドクスの世界を巡り続けることを決意する。

 彼は、翼を失った代わりに、広い視野と深い洞察力を手に入れた。

 そして、様々な世界の人々と出会い、彼らの悩みや喜びを分かち合いながら、成長していく。

 かつて天界を追放された天使は、パラドクスの世界を旅する中で、真の天使としての役割を見出す。

 それは、異なる世界を繋ぎ、人々に希望を与えること。

 

 セラフィムは、今日もパラドクスの世界を旅している。彼の旅は、まだ始まったばかりだ。

【プロット:ファンタジー】天使を呼ぶ街

【プロット:ファンタジー】緑の指を持つ男

東京の片隅にある小さなアパート。

そこに住む男、相沢透は、30代半ばの冴えないサラリーマンだった。

毎日満員電車に揺られ、無機質なオフィスで働き、コンビニ弁当で夕食を済ませる、

そんな透には、唯一の心の拠り所があった。

それは、ベランダで育てている小さな植物たち。

朝顔、ひまわり、ミニトマト

植物を育てることに、ささやかな喜びを見出していた。

ある日、会社の帰り道に、珍しい花屋を見つける。

「花咲く魔法使い」という、奇妙な名前の店だった。

店内には、見たこともないような植物が並んでおり、透は興味津々で足を踏み入れた。

そこで、彼は、店主の女性、園田美咲と出会う。

美咲は、透に、植物を育てる喜びや、植物が持つ不思議な力について語った。

透は、美咲の言葉に心を打たれ、彼女から一鉢の小さな苗木を購入する。

透は、美咲から教わった通り、苗木を大切に育てた。

毎朝、水をやり、話しかけ、愛情を注いだ。

すると、苗木は、驚くほどの速さで成長し、美しい花を咲かせたのだ。

植物を育てることに、ますます熱中するようになった。

様々な種類の植物を育て、ベランダは、まるで小さな庭園のようになった。

そして、透は、植物が持つ不思議な力に気づく。

彼が育てた植物は、周囲の人々に、癒しや活力を与えていたのだ。

透の同僚は、彼の育てた花を見て、仕事のストレスを忘れ、笑顔を取り戻した。

近所の老婦人は、透の育てたハーブティーを飲んで、長年の持病が改善した。

透は、植物を通して、人々に幸せを届けることができるようになったのだ。

透は、植物を育てる喜びを通して、自分自身の人生を見つめ直すようになった。

会社を辞め、美咲と共に、花屋「花咲く魔法使い」で働くことにした。

そして、美咲から、植物が持つ更なる秘密を教わる。

それは、植物は、人の心と繋がっており、人の感情に影響を与える力を持っているということだった。

その力を使い、人々を幸せにするために、植物を育て続けた。

彼は、植物を通して、愛、希望、そして、勇気を届けた。

数年後、透は、美咲と結婚し、二人の間には、子供が生まれた。

透は、子供に、植物を育てる喜びを教えた。

そして、子供は、透の育てた花を見て、笑顔になった。

 

平凡なOL、佐藤花梨は、毎日同じことの繰り返しにうんざりしていた。満員電車に揺られ、味気ないオフィスで働き、コンビニ弁当で夕食を済ませる。

ある日、花梨は書店で一冊の本を見つけた。

「天使を呼ぶ方法」というタイトルだった。

半信半疑ながらも、花梨は本を購入し、書かれた方法を試してみる。

本に書かれた通り、静かな場所で目を閉じ、心の中で天使を呼んだ。

すると、目の前に、まばゆい光が現れた。

光の中から、羽根を持つ美しい天使が現れたのだ。

天使は、花梨に優しく微笑みかけて言った。

「私は、あなたの守護天使です。

あなたの願いを叶えるために、ここに来ました」

花梨は、驚きと喜びで言葉を失った。

彼女は、今まで天使の存在を信じていなかったが、目の前に現れた天使を見て、自分の考えが間違っていたことに気づいた。

花梨は、天使に、自分の願いを伝えた。

それは、「毎日をもっと楽しく、充実させたい」という願いだった。

天使は、花梨の願いを叶えるために、様々な奇跡を起こした。

花梨の仕事は、やりがいのあるものに変わり、職場の人間関係も良好になった。

彼女は、新しい趣味を見つけ、多くの友人と出会った。

そして、花梨は、毎日を笑顔で過ごせるようになった。

彼女は、天使との出会いに感謝し、天使を心から信頼するようになった。

しかし、ある日、花梨は、天使の正体を知ってしまう。

天使は、実は、花梨の心の奥底に存在するもう一人の自分だったのだ。

しかし、天使は、花梨にこう言った。

「私は、あなたの心の支えです。

これからも、ずっとあなたのそばにいます」

花梨は、天使の言葉に涙を流し、天使を抱きしめた。

彼女は、天使がもう一人の自分であることを受け入れ、天使と共に生きていくことを決意した。

花梨は、その後も、毎日を笑顔で過ごした。

彼女は、天使の存在を感じながら、仕事に励み、趣味を楽しみ、友人と遊んだ。

彼女は、もう「何か足りない」とは思わなかった。

彼女は、天使と共に、充実した毎日を送っていた。

【プロット:ファンタジー】花咲屋

春の息吹が、まだ冷たい風と共に街を巡り始めた頃。小さな花の苗を売る店「花咲屋」に、一人の少女が訪れた。

名前はリリィ。透き通るような白い肌に、夜空を映したような青い瞳を持つ、12歳になる少女だ。

リリィは、店の奥に並べられた色とりどりの花々に見惚れていた。

赤や黄色の鮮やかな花、紫や青の神秘的な花、そして、白く可憐な花。

その一つ一つが、まるで生きているように輝いて見えた。

「いらっしゃいませ」

優しい声に振り向くと、カウンターの奥に、穏やかな笑みを浮かべた老婦人が立っていた。

花咲屋の店主、フローラである。

彼女は、リリィの瞳に映る好奇心を見逃さなかった。

「何かお探しですか?」

リリィは、少し恥ずかしそうに、小さな声で答えた。

「あの…花魔法って、本当にあるんですか?」

フローラの笑顔は、さらに深まった。「ええ、もちろん。花魔法は、この世界に生きる全ての命を繋ぐ、優しい魔法です」

リリィは、目を輝かせた。

彼女は、幼い頃から花魔法に憧れていた。

花を咲かせ、人を癒し、心を繋ぐ魔法。いつか自分も、そんな魔法を使えるようになりたいと夢見ていたのだ。

フローラは、リリィに一鉢の花を差し出した。

それは、白い花びらに淡いピンクの縁取りがされた、可憐な花だった。

「この花は、『願いを叶える花』と言われています。大切に育てれば、きっとあなたの願いを叶えてくれるでしょう」

リリィは、花を受け取ると、胸が高鳴るのを感じた。

彼女は、この花を大切に育て、いつか花魔法を使えるようになると心に誓った。

それから毎日、リリィは花に水をやり、話しかけ、愛情を込めて育てた。すると、不思議なことに、花は日に日に大きく、美しく成長していった。そして、リリィの13歳の誕生日。花は、満開の花を咲かせた。

その瞬間、リリィは、体の中に不思議な力を感じた。

それは、温かく、優しい力。リリィは、直感的に理解した。

これが、花魔法の力だと。

リリィは、花に向かって優しく語りかけた。

「私の願いを叶えて」

すると、花びらから、淡い光が溢れ出し、リリィの体を包み込んだ。

リリィは、目を閉じ、心の中で強く願った。

「世界中の人々が、笑顔で幸せに暮らせますように」

光が消えると、リリィの手には、小さな種が握られていた。

リリィは、その種を庭に蒔き、水をやった。

すると、種はみるみるうちに芽を出し、成長し、美しい花を咲かせた。

その花は、リリィが見たこともない、不思議な花だった。

花びらは七色に輝き、甘い香りを漂わせている。

リリィが花に触れると、花びらから光が放たれ、リリィの心を満たした。

リリィは、この花が、人々に幸せを運ぶ花だと確信した。彼女は、この花を「希望の花」と名付け、世界中に広めることを決意した。

リリィは、希望の花の種を、多くの人々に分け与えた。

そして、人々は、リリィの願いに応えるように、希望の花を大切に育てた。

希望の花は、世界中に広がり、人々の心を癒し、笑顔を咲かせた。

そして、リリィは、花魔法を使って、人々を幸せにする「花の魔法使い」として、長く語り継がれるようになった。

【プロット:ファンタジー】リリィ

春の息吹が、まだ冷たい風と共に街を巡り始めた頃。小さな花の苗を大事そうに抱えた少女、リリィは、魔法学園の門をくぐった。

彼女は、代々続く花魔法使いの家系に生まれた、期待の新入生だった。

リリィの家系は、花々を操り、人々を癒やす魔法を得意としていた。

しかし、リリィは生まれつき魔法の力が弱く、どんなに練習しても、花を咲かせることすらできなかった。

そのため、周囲の期待とは裏腹に、彼女は自信を失い、魔法学園への入学をためらっていた。

入学式の朝、彼女は祖母の遺した古い魔法書を開き、そこに記された言葉を胸に刻んだ。

「花の声を聴きなさい。

 花は、あなたに語りかけます」。

学園での生活は、リリィにとって刺激的だった。

魔法薬学、魔法生物学、魔法史。

様々な授業を通して、彼女は魔法の世界の奥深さを知った。

そして、花魔法の授業では、様々な花言葉や、花に宿る精霊の存在について学んだ。

ある日、リリィは学園の温室で、一輪の枯れかけたバラを見つけた。

そのバラは、かつて学園で最も美しい花を咲かせていたという。

リリィは、そのバラにそっと手を触れ、心の中で語りかけた。

「どうしたの? 

 なぜ、こんなに元気がないの?」

すると、不思議なことに、リリィの心に、かすかな声が届いた。

「─── 水が ─── 欲しい……」

リリィは、すぐにジョウロでバラに水をやった。

すると、バラはみるみるうちに元気を取り戻し、美しい真紅の花を咲かせたのだ。

彼女は、初めて花の声を聴き、花と心を通わせることができたのだ。

この出来事をきっかけに、リリィの魔法は開花し始めた。

彼女は、花の声に耳を傾け、花々の願いを叶えることで、様々な魔法を使えるようになっていく。

花を咲かせるだけでなく、花を操って物を動かしたり、花から癒やしの光を放ったり、さらには、花びらで幻を作り出すこともできるようになった。

リリィは、その力を活かして、人々を助けたいと願うようになった。

彼女は、学園を卒業後、花魔法使いとして、世界中を旅した。

枯れた大地に花を咲かせ、病に苦しむ人々を癒し、争いの絶えない地域に平和の花を届けた。

そして、リリィは、いつしか「花の魔法使い」として、世界中の人々に愛されるようになった。

彼女は、花を通して、人々に笑顔と希望を届け続けた。

【プロット:ファンタジー】魔法の花屋 フルールル


古びた木製の扉を開けると、そこは色とりどりの花で溢れていた。

紫のラベンダー、赤い|薔薇《ばら》、黄色いひまわり、青い忘れな草など  瑞々しい花々が、そよ風に優しく揺れている。

「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうから、穏やかな笑みを浮かべた女性が声をかけてきた。

白いエプロンを身につけ、髪にはピンク色の薔薇を飾っている。

「ここは ───」

私は驚きで言葉を失っていた。

「ここは花魔法のお店、『フルール』よ。どんな願いも、花で叶えてあげる」

彼女はそう言って、カウンターに並べられた花々を指差した。

私は恐る恐る、赤い薔薇を手に取った。

「この花は ───」

「それは、愛の花。大切な人に贈れば、あなたの想いはきっと伝わるわ」

女性の言葉に、私は顔を赤らめた。

「あの… 実は、好きな人がいるんです。でも、なかなか気持ちを伝えられなくて ───」

「そうなのね。だったら、この薔薇を贈って、あなたの気持ちを伝えてみましょう」

女性は優しく微笑み、薔薇の花束を作ってくれた。

 

私は勇気を振り絞り、その花束を好きな人にプレゼントした。すると、彼は驚きながらも、満面の笑みで受け取ってくれた。

「ありがとう」

そう言って、私の手を握りしめた。

それから私たちは、花魔法のおかげで結ばれることができた。

後日、私は再び『フルール』を訪れた。

「あの時は、本当にありがとうございました」

深々と頭を下げた。

「どういたしまして。あなたたちが幸せそうで、私も嬉しいわ」

彼女はそう言って、私に一輪の白いユリをプレゼントしてくれた。

「これは ───」

「それは、純粋な心の象徴。これからも、その心を大切にして生きていくのよ」

私はユリの花束を胸に抱き、店を後にした。

花魔法は、確かに存在した。

それは、人の心を動かし、奇跡を起こす力を持った魔法だった。

【小説】霧と幻の山へ

都会の喧騒を離れ、ひと時の安らぎを求めて山小屋にやって来た霧島 蓮は、数日間寝泊まりして休暇を満喫していた。そんなある晩、突然の嵐に見舞われる。その嵐の中、訪ねてきた女がいた。年齢は一回りくらい上らしいその女は綾瀬 凛と言った。食事を分け与え、暖を取らせて落ち着くと、ポツリポツリと取り留めない話を始める。言動に不自然な部分があり、凛の話ではどうやら未来からやって来たようだった。このままでは、この霧幻山の噴火によって周囲100キロの範囲で甚大な被害が出る可能性がある、と言うのである。噴火を止めるために、中腹にある祠を訪れる必要がある、という話に従って蓮と共に向かうのだが ───

 

 一年のほとんどを霧に包まれ、滅多に山頂を見ることができない魔の山と言われる|霧幻山《むげんざん》は、神秘的な外観と数々の伝承から登山家たちに愛される山である。

 都会の喧騒を離れて、ひと時の安らぎを求めてやって来た|霧島 蓮《きりしま れん》は、山小屋を目指して先を急いでいた。

 天気が良いうちに山小屋に入りたい。

 遭難者が毎年たくさん出る魔の山と呼ばれるだけあって、天気はまったく読めなかった。

 今は見上げれば|試練の峰《しれんのみね》をはっきりと視界に捉えられる。

 山の|頂《いただき》が見えていると、すぐに辿り着けそうな気がしてくる。

 だが、歩けども、歩けども同じスケールで眼前に|聳《そび》えているのである。

 まるで、人生において目標の頂を目指して歩き続けるように。

 気象庁地震火山部火山監視課火山機動観測管理官である蓮は、普段火山の情報をコンピュータで集約し、指示を出す立場である。

 庁舎の中で一日中デスクに向かい、決済印を押すデスクワークをしたり、来客対応をしたり、といった仕事が主で、自らの足で火山へ行くことはない。

 現場に管理官が来た、というだけで混乱が起こるだろうし、書類仕事が多くて出歩いてなどいられない。

 日々データを集め、些細な変化に目を光らせて会議を重ねても、自然を相手にしていると実感させられることがある。

 突然の噴火の例としては御嶽山浅間山が記憶に新しい。

 直後から富士山も噴火するのではないかと騒がれた。

 登っている霧幻山は休火山だと言われているが、富士山も休火山だから、いつ噴火しても不思議ではないはずである。

 仕事柄、心配事で頭がいっぱいになってしまうのだが、山の爽やかな空気が気持ちを|和《やわ》らげてくれた。

 足を止めずに両手を広げ、肺の奥まで空気を吸い込み、身体を縮めてすべて吐き出す。

 自然と顔はほころんだ。

「ああ、山は良いなあ」

 独りごとが口を突いてでた。

 茂みにピンクのカライトソウが鮮やかに浮かび上がり、少し大ぶりのムゲンフウロが鈴なりに花をつけていた。

 見とれていると足元の石がゴロリと転がって、バランスを崩した。

 足元をすくわれるのもまた、人生だろうか。

 目指す約束の丘が、いよいよ近づいてきた。

 

 眼前にあった試練の峰は、次第に薄ぼんやりとして霧の中へと消えて行く。

 目の前に広がる約束の丘には、目の覚めるような美しい花をつけた草原が広がる。

 そして、ぽつんと古びた山小屋が建っていた。

 緑の草原に、薄汚れた白壁とベージュの切妻屋根の小屋が、ロマンチックな風景を描き出す。

 この世の物とは思えない美しさに、ため息が出るほどだった。

 小屋に入ると数日分の食料と水を確認して、ミカン箱のような木箱に腰かけてひと心地ついた。

 暗い室内には、テーブルと椅子になる箱が隅にきちんと揃えてあった。

 パソコンも、冷蔵庫も、水道も、電灯さえもない。

 時間がとてもゆっくりと流れる気がした。

 緊急用にスマホだけは持っているが、電源を入れるつもりはなかった。

 外は束の間、晴れたりするが、ほとんどどんよりとグレーの雲に包まれ、霧が立ち込めていた。

 山頂があった方向を見ても、真っ白な霧に閉ざされている。

 一つ伸びをして頭の後ろに手を組んだ蓮は、荒い設えの床にゴロリと横になった。

 ずっと坂を登ってきたため、足はジリジリと溜め込んだ疲労が波打つ。

 このまま横になっているだけでも、充分に休暇を満喫できるな、と思いながら眠りに落ちていった。

 霧幻山には、精霊や神様が数多く住むとされ、伝承が多かった。

 山小屋がる約束の丘は、恋人同士で訪れて永遠の愛を誓い、幸せを願う場所とされている。

 だから壁にはカップルの名前や愛の言葉が無数に彫られていて、古い文字が消えかかると、新しい文字が上書きされ、層を成していた。

 蓮は独身だった。

 帝都大学理学部を卒業後、国家公務員として日本中を転々としながら気象庁で火山や地震の調査研究に没頭する毎日を送ってきた。

 待遇は申し分ないし、思春期に志した仕事に就くことができた。

 胸を張って毎日庁舎を闊歩し、部下に指示を出し、責任ある立場になった今、何不自由なく暮らしている。

 だが、何かが足りない。

 薄暗くて何もないこの部屋は豊かだった。

 風の音と土の匂い、窓から見える霧に包まれた風景。

 心をいつも緊張させて暮らしていた都会の生活から解放されると、自分自身という存在が自然と一体になって気分が良かった。

 

 何人かの登山家が山小屋を訪れ、登山地図やガイドブックを確認し休憩を取って行った。

 |挨拶《あいさつ》を交わす程度で、特に話はしなかったが、習慣で見た目の年齢と服装、背丈と体形などの特徴を頭に入れた。

 いつどこで|遭難《そうなん》するか分からない難所では、データが命を|繋《つな》ぐ要になる。

 こうしている間にも、天候が急変するかもしれない。

 そうなれば、寝てなどいられない。

 最も近くにいる自分が助けに行く覚悟はあった。

 登山愛好家として最低限の心構えと、火山学者としての自覚はあった。

 また静寂が戻るとゴロ寝を始める。

 頂上を目指さずに、山小屋でのんびりする者など珍しいのかも知れない。

 もう、明日には下山するつもりだったのだが夜になって天候が急変した。

 外を覗いてみたが、風雨が凄まじくて視界はほとんどない。

 行方不明者がいれば、備え付けの無線に連絡があるかも知れない。

 下山直前の急変に緊張が走る。

 荷物を引き寄せ、スマホを取り出すとニュースを調べたが、それらしい情報はなかった。

 何年も風雪に耐えてきた小屋は、風に|軋《きし》みもしなかった。

 蓮はまた床にゴロリと横になった。

 ゴウゴウと鼓膜を打つ風鳴りと、雨がパチパチと地を打つ音に包まれ、いつしか何も聞こえなくなっていく。

 そのとき、入口の重い木戸をゆっくりと開ける音を聞いて跳ね起きた。

 灯りがない室内に、黒い影が雨粒と共に入り込み、木の床に倒れ込んで|呻《うめ》いた。

「すみません、急な、嵐に、見舞われ、まして ───」

 女の声だった。

 窓の月明りもないので、姿はほとんど分からない。

 とにかく、備え付けの毛布で身体を拭くように、と渡した。

「あの、ここはどこでしょうか」

 女が尋ねた。

 蓮は一瞬何を聞かれたのか分からず、口をパクパクして声がした方を見ていた。

「どこって」

「山にいるようですが ───」

 

「霧幻山の中腹にある、約束の丘にいます。

 嵐の中、この山小屋に辿り着けたのはラッキーでしたね」

 女は荷物を持っていないようだった。

 |憔悴《しょうすい》した様子で、かすれ声が震えていた。

「私は霧島 蓮です。

 歩けないようでしたら無線で救助を要請しますが」

 手探りで緊急用に持ってきた豆炭にマッチで火をつけた。

 山では大きな火はNGだから、小さな火種を効率よく使えるネイチャーストーブに放り込む。

 これがとても暖かくて、冷えきった体をぬくぬくとさせてくれる。

 地獄で仏とはこんな気分だろう。

「あの、|綾瀬 凛《あやせ りん》という人をご存じですか」

 人心地がついて、声に張りがでてきた。

 ジンワリと赤い火種から一筋の炎がゆらめく他は、動くものがない部屋に、相変わらず雨と風の音が強くなり、弱くなり、小さな小屋を容赦なく叩き続けている。

 蓮は逡巡した。

 さっき出逢ったばかりの、見ず知らずの他人に尋ねるのだからタレントか何かだろうか。

「いいえ、知りませんが ───」

 困惑の色を醸しながら、きっぱりと言った。

 普段地上波を見ないし、オリンピックも気付いたら終わっていた、とスルーしている人間に芸能界ネタは通じない。

 つまらない堅物だと思われるだろうか。

「ああ、ちょっぴりショックだわ。

 じゃあ、やっぱり伝承は本当だったってわけね」

 部屋の中が温まってきて、心にゆとりが出てきたのか、彼女は天井を仰いで笑い始めた。

「ねえ、私は47歳だけど、あなたの歳を教えてくれる」

 身を乗り出して、蓮に顔を近づけて真っ直ぐに見つめてきた。

 戸惑いながら、蓮は答えた。

「35歳、ですけど」

「ねえ、若い頃の相方に逢えるなんて、素敵だと思わない。

 私、超ラッキーだわ」

「ちょっと、何を言ってるのか ───」

 |訝《いぶ》かし気な声色に、彼女はつけ加えた。

「最近の説ではタイムスリップして、未来のことを話しても、未来は変わらないのよね。

 だから、教えてあげる。

 私たちは夫婦になるの」

 蓮は|呆気《あっけ》にとられた。

「そして、この山の噴火に巻き込まれて死ぬのよ」

 

 管理課の火山対策官まで昇りつめた蓮は、頭に白いものが混ざり始めていた。

 気象庁という組織は、体育会系も、キャリアも、昇進のチャンスが平等に与えられる。

 国家公務員の中には、未だに薩摩・長州出身を重んじるとか、帝都大出身が幹部をほぼ独占するとかという省庁もあるから、健全だと言える。

 反面、予報が外れたとか、災害が目の前で起きているのに対応が遅いとやり玉に上がりやすい面もある。

 生活と生命に直結するシビアさがあるから、開かれた組織なのかも知れない。

 霧幻山の約束の丘を出たとき、スマホに着信があった。

「凛、どうした。

 一応仕事中なんだが」

「うちを出るとき、お守りを忘れて行ったでしょう。

 ちょっと、ひっかかっていて、かけてみたのよ」

 中腹にある、幻影の|祠《ほこら》で拾った石を、お守り袋に収めていつも持ち歩いていた。

 外出するときにはいつもカバンやポケットに忍ばせていたのだが、リビングのテーブルに置いたままだったらしい。

「そんなことか ───」

「それと、今日は50歳の誕生日でしょう、おめでとう」

「半世紀も生きると、めでたくもあり、めでたくもなしだな」

 休暇を利用して霧幻山へ、若い頃から何度も登っていた。

 結婚してからも独りでぼんやりとする時間を、ここで過ごすのが恒例行事だった。

 現代人のライフスタイルとしては、ごく普通の感覚である。

 家庭があっても一人旅を楽しむ。

 そんな余裕が、人生に広がりをもたらすのだ。

 幻影の祠の裏手に、時の迷宮と呼ぶ不思議な白い岩の洞窟がある。

 入ると時空が歪むとされているのだが、気味が悪くて入ろうという気にはならなかった。

 足を止めてぼんやりと輝く岩を眺めていた時である。

 ドドーン、と爆発音がしたかと思うと、足元がツイストするように大きく揺れ始めた。

「ねえ、どうしたの。

 大きな音がしたけど大丈夫?」

 妻の上ずった声がスマホから漏れ出る。

「何だ、あれは。

 まずい、逃げろ!」

 次の瞬間、|轟音《ごうおん》と共に通話が途絶えた。

「あなた! 蓮! 蓮 ───」

 声が大きくなり、外に飛び出して霧幻山の方角に視線をやると、空が暗くなっている。

 臨時ニュースが伝えた。

 霧幻山が前触れなく噴火したと ───

 

 突然の噴火から1年後、火口付近は立入禁止だったが入山できるようになった。

 火山の安全対策を指揮する者がいなくなっても、何事もなかったかのように総務課は再編成されていた。

 犠牲者の捜索が行われた当時、幻影の祠付近も火山灰に覆われ、行方不明者は見つからなかった。

 凜は忘れ形見となったお守りをしまい込むと、霧幻山へ向かった。

 夫は散歩にでも行くように、気楽に訪れていた山は、霧に包まれ足元を確認するのがやっとだった。

 事前にスマホに入れていた山岳地図をたよりに、少しずつ進んで行く。

 火山灰が積もった場所は、下草もなくなり|禿《はげ》山と化している。

 霧が晴れてくると、試練の峰を視界の先に捉えることができた。

 何度か話題にしていた光景である。

 幻影の祠がある峰まで、陽が高いうちに辿り着けそうだった。

 晴れ渡ると空が高くなり、周囲の山々をはっきりと見ることができた。

 大自然という巨大な舞台に立つ、小さな米粒のような自分のスケール感を思い知らされた。

 慣れない登山で足は熱を持って、一休みしたい気持ちになったが天気が急変する山の事情を考えれば、先を急ぐしかない。

 果たして、火山灰を取り除いた部分に、ちんまりと収まった祠を見つけ、駆け寄っていく。

 噴火によるダメージか、無数の砕けた跡が生々しい。

 お守りを数珠のように親指にかけ、合掌して目を閉じた。

 持参した花をバックパックから取り出し、水と共に供えた。

 祠の裏手には、輝く白い岩の塊がある。

 その下にある小さな洞窟が、時の迷宮である。

 実際に目の前にすると、神秘的な輝きを放ち、時空が歪むとされる言い伝えが起こるのも理解できた。

 凜はお守りをギュッと握りしめ、バックパックを入口に下ろすと、迷宮の中へと入っていった。

 懐中電灯で照らすと、ガラス質の部分が星空のように|煌《きら》めき、幻想的な風景に心が吸い込まれそうになる。

 小さく上へ下へとうねりながら進む洞窟内は、複雑に入り組んでいて進んでいるのか、戻っているのかも分からなくなってきていた。

 そして、出口に辿り着いたとき、外は猛烈な嵐に包まれていた。

 勇気を振り絞って外に出ると、身を縮めて約束の丘の山小屋を目指したのだった。

 

 朝になると、嵐がウソのように晴れ、柔らかい陽射しが降り注いでいた。

 そよ風に小さな花が揺れ、空にはポッカリと浮かんだ雲がゆっくりと流れていく。

「幻影の祠が霧の中に浮かぶとき、山の神を鎮める力を宿す。

 これは、霧幻山に伝わる伝承の一つです」

 朝日に目を細めながら、両拳を空へ突き上げて伸びをする凜は、蓮の言葉を聞いていた。

「私、祠の裏にある時の迷宮をくぐり抜けてきたの。

 細い洞窟だったから、バックパックを入口に置いて来たのだけど、出るときにはなかったから時空の歪みを抜けてきたのでしょうね」

 近い将来結婚する女性が、歳をとって隣りにいる。

 にわかには信じがたい話だが、彼女と肩を並べていると気分が落ち着いていた。

「もう食料も底をついたし、祠と洞窟を通って帰るとします」

 何とはなしに、蓮が呟いた。

 凜は|双眸《そうぼう》を見開いて、彼の横顔を見た。

「私ね、あなたに聞きたいことも、話したいことも山ほどあったはずなの。

 でも、実際に合うと、こうして一緒にいるだけですべて解決した気になったわ」

 約束の丘は、永遠の愛を誓う場所とされている。

 心の安らぎを求めて時々やってくる蓮は、不思議な巡り合わせを感じた。

 隣りにいる女性に聞けば、自分の将来を|垣間《かいま》見られるのだろう。

 世の中がどう変化して行くのか、気にならないわけではない。

 だが、この世界とは無関係に存在する、未来の世界とは別の運命を辿るのかも知れない。

 だから、黙って足元の岩を踏みしめて歩いて行った。

「ふふ、お互いに、知りたいことがあるはずなのに、黙っているのは一緒よね。

 あなたと結婚する前、エリートの堅物ってイメージが強かったの。

 でも、ふらりと山へ行って|憑《つ》き物が取れたような顔して帰ってきたり、山の伝承に詳しかったり、ロマンチストな面もあるんだなって思ったのよ」

「僕は、ずっと必死に勉強して、火山の研究をして、疲れたら山に登る。

 そんな狭い人生を送っています。

 最期も山で死ぬのなら、この世界のどれくらいを見て生きていくのか、もったいない気もします」

 独り言のように蓮は言った。

「祠に願掛けをしましょう。

 私の世界にも、あなたの世界にも、価値ある未来が訪れるように」

 ポケットから取り出したお守りをぶら下げて、手を合わせた彼女は、そっとそれを差し出した。

「これは、形見の品でしょう」

「本人に言われると、変な気分よね。

 いいの、あなたが作ったお守りでしょう。

 これを肌身離さず持っていてちょうだい。

 そして、噴火に巻き込まれないように身を守ってね」

 時の迷宮は、変わらず煌めきを湛え、ポッカリと暗い穴を開けて待っていた。

「じゃあ、会えて良かったわ。

 くれぐれも、自分を大事にして生きてちょうだいね」

 身を縮めて、彼女は洞窟に入りかけた。

「そうだ、もし長生きできたら、ヨーロッパにでも行ってごらんなさい。

 日本とは違う文化に触れて、博物館めぐりでもするといいわ」

 振り返らずに、小さく右手をあげて言った。

 星屑のように輝く洞窟の中に、彼女の身体が影のような黒い塊に変わり、小さくなって、そして消えて行った。

 

 50回目の誕生日を迎えた蓮は、霧幻山を|遥《はる》か遠くに眺めていた。

 そう、今日は噴火するはずだった日である。

 半径100キロ圏内に厳戒態勢を敷き、住民を避難させてしまったから、後で散々叩かれるだろうな、などと思いため息をついた。

 凜とは突然上司がセッティングしてきた見合いで結婚した。

 お互いの人生を尊重し合い、一定の距離感を持っている生活が居心地良い。

 昔の友人からは、

「霧島みたいな生活が待っているなら、俺も結婚しようかな」

 などと言われる。

 あまりピンとこないのだが、幸せとはこういうものかも知れない。

 子どもは上が女の子で、下が男の子である。

 ヤンチャ盛りではあるが、勉強も手伝いもきちんとするところは、生真面目な両親に似たのだろう。

 一旦国家公務員宿舎へ戻り、リビングで缶ビールを一本開けた。

「ニュースになってるわね。

 今日噴火するはずだって、気象庁が言い張ったんだって」

「つまり、俺がデマを流したわけさ」

 3つ下の凜は、子供服にレースを付ける作業をしながらちらりと視線をよこした。

 インターネットで注文を受けて、オリジナルの服をオーダーメイドで作って売っているのだ。

「元はと言えば、君が噴火すると言ったんだぞ」

 何を言っているのか分からない、という顔をして妻が手を止めてこちらを見た。

「またあの話?」

 そう、結婚前に歳を取った妻が現れたことを何度か話題にしていた。

「信じないかも知れないけど、本当にあったとしか言いようがないよ」

 彼女は肩をすくめてミシンの方へ向き直った。

「俺さ、フランスにでも行ってこようかな」

 あからさまにフンと鼻を鳴らして妻が言った。

「今日のあなたって変よね。

 でも、ちょっと安心したわ」

 早速フランス行きの航空券を押さえ、ガイドブックを読み始めた。

 明日出勤したら、誰から電話がかかってくるだろう、誰から順番に謝ったらいいだろう、などと半分考えながら、心はヨーロッパへ飛んでいたのだった。

 

 

この物語はフィクションです

 

【小説】夢見る亡骸

強い意志の力を持って相手に念を送り、悪夢を見せる。平安時代陰陽師を思わせるような特殊能力を授かった 石川 花 は、裕福な家庭にメイドとして雇われた。新薬開発の事業で成功を収めた 伊藤 敬一郎 の元で働くうちに、重大な秘密を掴む。心にどす黒い殺意を抱いた彼女は、夢魔の力を使いターゲットを精神的に追い込んでいく。

ある日、警視庁捜査一課の刑事 鷹野 剛 の元に、奇妙な事件の捜査依頼が舞い込んだ。呪いで殺された、とされる遺体が見つかったのだ。死亡診断書には心不全と書かれたのみだったが、明らかに衰弱している外は目立った外傷も薬物も見つからない。そして立て続けに2人が不審死をしていた。オカルト好きで有名な 朧月 十座 と共に現場に向かった彼らがみたものは ───

※本作品はミステリィの性格上、残酷表現と取れる表現を含みます。

 

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ジャンルの性質上「死」と切り離せないミステリィを自分が書くことに始めは違和感を覚えました。でも、人の生命をテーマに織り込むためには、死をもたらすほどの憎しみを描く必要があると思います。今までに書いたジャンルの中で、特に好評をいただいた作品がミステリィだったのは意外でした。今回の作品はホラーと組み合わせる、という自分にとって初めての試みです。

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 大学時代の仲間と共に製薬会社を起業し、新薬開発を成功させ一代で巨万の富を築いた|伊藤 敬一郎《いとう けいいちろう》は、ゆっくりと肘掛け椅子から腰を浮かせ、寝床に就いた。

 最近悪夢にうなされ、食欲がなく好きだったワインも飲めなくなった。

 今夜は特に|動悸《どうき》がひどくて、窓の外の景色を眺めて心を|鎮《しず》めようとしたが、なおさら落ち着かなくなるばかりだった。

 左胸を軽く押さえながら、カーテンに手をかけた。

「今夜も、寝付けそうにないな」

 |眼窩《がんか》に濃い|隈《くま》がはっきりと窓ガラスに写り、お化けの様だな、などと思ったが室内を振り返った瞬間、息が詰まった。

 すぐ後ろに、20歳前後と思われる若い女が立っていたのだ。

「彩花《あやか》 ───」

 敬一郎はカーテンから下ろした左手を追いすがるように伸ばした。

 5年前に死んだはずの娘はゆっくりと下がり、虚空を|掴《つか》んだ手をさらに伸ばして歩を進めた。

 そのさらに後ろに、もう一人若い女がいた。

 薄い微笑と共に、敬一郎の恐怖に引き|攣《つ》った表情を楽しんでいるように見えた。

 天井を仰ぐと、顔が隠れそうなほど長い髪の間から、目元の大きなホクロが覗く。

 勝ち誇ったように見下ろす表情と共に、かすれた声で笑ったような気がした。

 そして、ゆっくりと身体が透き通り、部屋の壁が現れたのだった。

 全身がワナワナと震え、歯がかみ合わずガチガチと音を立てる。

 髪を掻きむしりながらベッドへ滑り込むと、掛け布団を頭の上まで被って息を殺した。

「あんたは、心臓に難病を抱えた人たちを救う、画期的な新薬を開発したくせに、なかなか世に出そうとしなかった。

 だから私の妹は ───」

 掛け布団越しに冷たい手の感触が伝わり、ゆっくりと|剥《は》がされていく。

 |喉《のど》にボールが詰まったように息ができなくなって、眼球が飛び出すほど目を|剥《む》いた後、黒目がぐるりとひっくり返った。

 意識が遠のきそうになったとき、突然喉の違和感が消えてゼイゼイと空気を肺の浅い部分に何度も吸い込み、喉を掻きむしっていた手をゆっくりと緩めた。

 夢の中の出来事なのか、現実なのか、自分が生きているのかも分からなくなり、また布団に|包《くる》まって|嗚咽《おえつ》を|漏《も》らして何時間も震えていたのだった。

 

 東京都蕨塚区の閑静な住宅街に、ヨーロッパの石造りの外観を模した、豪邸が建っていた。

 近所では「古城」と呼ばれ、ヨーロッパの城を思わせる外観は、主人の趣味を色濃く表わしていた。

 大きな木製ドアの中には、サーベルや|甲冑《かっちゅう》の模造品が並び、上がり口がなくて、赤い|絨毯《じゅうたん》に土足で上がるようになっている。

 伊藤が雇った、若い|石川 花《いしかわ はな》は広いリビングの中央で、白いテーブルクロスを広げ夕食の支度をしていた。

 これまた伊藤の趣味で「メイド」として雇われ、ヒラヒラとしたレースやリボンで着飾った服装を、好きとも嫌いとも思わず淡々と仕事をする。

 |燭台《しょくだい》に灯を入れる、と言っても電球色のLEDのスイッチを付けるのだからわざわざ他人にやらせなくても、などと考えるが毎日のルーティーンになっていた。

 この屋敷に職を求めてきた理由は2つある。

 まずヨーロッパの|趣《おもむき》が、趣味に合うからである。

 趣味趣向ではなくて心の奥に、しまい込んでいるものに打ってつけなのだ。

 2つ目は、主人の伊藤 敬一郎に近づくためである。

 夕食はいつもきっかり7時に始まり、客を呼ぶ日が多かった。

 製薬会社や薬局関係者、医者、大学の研究者などが、知識人ぶって世の中を批判してみたりなどしている。

 メイドの石川にとっては、嫌悪感すら覚える話題である。

 こうして2時間ほどの夕食が終わると片付け、自室に戻ってため息をついた。

 メイド服というものは、ヒラヒラした飾りばかりで悪趣味なロリコン好みにできている。

 手先が器用な石川は、ちょっと現代風にアレンジしてタイトなイメージに作り替えてみた。

 これが伊藤にも受けて、時々カスタマイズして欲しいと要望されたほどだった。

 ふん、と鼻を鳴らすと脱着できるレースを外し、シックな黒衣に早変わりする。

 イメージは、ヴァンパイアである。

 そう、伊藤は愚かにも、自ら進んで血を|啜《すす》られるために雇ったのだ。

 少しずつ、少しずつ、奴の魂を削り、血を抜き取り、肉を削ぎ、地獄へ落とす。

 頭の中に|怨念《おんねん》が満たされる快感に酔いしれ、今度は本物の燭台に火を灯した。

 今夜も、魂をあの世に導く炎がゆらめき、胸の前で手を組んだ彼女の心を|鎮《しず》めていく。

「あと一回 ───」

 口角を上げ、歪めた|顎《あご》を月明りが照らした。

 

 大理石のようなオフホワイトの壁が、くすんだ日本の色彩とは異なる趣を漂わせる「古城」の前に女は腕組みをして|佇《たたず》んでいた。

 |傍《かたわ》らで、周囲をスマホで撮っていた男が、

「いかにもって感じの建物だな」

 としきりに|唸《うな》っている。

 探偵である2人は、行方不明者を捜索する案件で、何度か魔術信仰の宗教団体へ行きついていた。

 ターゲットが黒魔術にどっぷりとハマり、宗教で安らぎを得ている面もあるため一概に否定はできない面もあるが、事件性がない結末にガックリしてしまうのだった。

 明らかに違和感のある建物は、宗教団体絡みな場合もある。

 黒いジャケットと、黒パンツの|上田 莉子《うえだ りこ》は、インターホンの前に立った。

「ここの主は、あのトーイ製薬を一代で成功させた伊藤 敬一郎だったのだろう。

 怪しい館に製薬会社って、怖い組み合わせだよな」

 周囲の景色からは浮いて見える黒衣に身を包んだ|井澤 健太《いざわ けんた》は顔を|顰《しか》めた。

「|私《わたくし》、サクリファイズインカンテーションの上田と申します」

 愛想よくちょこんとお辞儀をしながらカメラに笑顔を向ける彼女に、内心「魔術信仰してるキャラを演じろよ」などと思ったが、どうでもいいと思い直し井澤も後に続いた。

 だだっ広いリビングには白いクロスをかけた大テーブルが|設《しつら》えてあった。

「いらっしゃいませ、ごゆっくりどうぞ」

 ボディラインにピッタリとフィットした黒衣にレースをあしらって、洗練されたファッションの若い女性がシャンパンを勧めてきた。

「私は、メイドの石川と申します」

 今どきリアルなメイドなどいるのか、と驚きの眼差しを向けると、彼女は遠慮なく向かい側に腰を下ろして席を勧めた。

 そこへ50歳前後の女性が入ってくると石川は、弾かれたように立ち上がった。

「あら、いいのよ。

 楽にしててちょうだい」

 手で制して座らせたのは、敬一郎の妻である、|麻美《あさみ》だった。

 とりあえず、とシャンパンで乾杯して舌を湿らせると、|早速《さっそく》切り出した。

「娘の彩花も、夫の敬一郎も、毎晩悪夢に苦しめられて、衰弱死したのです。

 どう考えても、魔術が絡んでいるとしか思えません」

 彼女自身も、最近深く眠れない夜が増えたと言うのである。

「あと一回、魔術で人が死ぬかもしれないと ───」

 何の気なしに井澤が|呟《つぶや》くと、彼女の顔が引きつった。

 

 話が一段落すると、石川はキッチンへと下がっていった。

 上田が後に付いて行こうとすると、

「仕事ですから」

 と言いながら振り向いた顔に一瞬影が差した。

「その服、かわいいわね。

 シュッとしてて、良くあるメイド服とイメージが違うけど、もしかして」

「私が作ったの」

「うわあ、|凄《すご》いね」

 などと話を盛り上げつつ、キッチンへ入り、皿を出したり食材をレンジで温めたりなどし始めた。

 大テーブルにパンとサラダとハムなど、簡単なランチを並べると石川がもう一人の住人を連れて入ってきた。

「|橙沢 茜《とうざわ あかね》です」

 起きたばかりなのか、|擦《かす》れた小さな声なので、上体を乗り出して聞き耳を立てた。

「橙沢さんは、帝都大学文学部の大学院生なんです」

 補足した石川は言葉を切った。

 ため息をついた麻美の表情がこわばった。

「へえ、私、小説が好きなんです。

 おすすめの本とか、教えて欲しいな」

 気さくに笑顔を向けながら上田が言った。

 食事を済ませると、石川が部屋に案内してくれた。

 2人は麻美から依頼を受けて、住み込みで調査をすることになっていた。

 表向きは魔術に詳しい知人、ということにしていた。

 リビングから玄関ホールへ戻ると、ゆるやかなサーキュラー階段が、入口から見て左手の壁沿いにある。

 アイアンワークの手すりが規則正しい縦線を刻み、何ともいえないスケール感を|醸《かも》し出す。

 2階は中央の廊下を挟んで左右に部屋が並んでいる。

 一番奥の左手に石川の部屋があり、向かい側に橙沢の部屋がある。

 その手前は両側共に物置部屋になっていて、一番手前の来客用の部屋を使うことになっていた。

 左側に上田、右側に井澤が入ると、当面の着替えを入れたキャリーバッグを引き入れた。

 

 東京都蕨塚区の警察署で、|鷹山 剛《たかやま つよし》は席を立った。

 同じ捜査一課の刑事である、|朧月 十座《おぼろづき じゅうざ》に目で合図すると、覆面パトカーまで一言も言葉を発せずに走っていく。

 勢いよく運転席へ滑り込むと、ミラーとステアリング、ブレーキの確認をしながら言った。

「殺人事件だって言い張ってる、こんな話、聞いたことあるか」

 助手席の朧月がくるくると指を回しながら、

「生真面目にパトカーを確認するあたり、危機感はないようですね。

 ふふふ、それより僕の好みのシチュエーションじゃないですか」

 不気味な光を|湛《たた》えた|双眸《そうぼう》が、少し濁っているような気がするのは、オカルト好きな彼の言動のせいだろうか。

「一晩泊ってくるか」

 何の気なしに言ったのだが、

「本当に良いんですか」

 小躍りしそうな勢いで明るい声が返って来た。

 周囲に犯人が潜伏している可能性を考えて、サイレンは使わずに制限時速を軽く破って急行する。

 少し手前の路地に停め、屋敷に入っていくと驚いた。

 というより朧月のほうは興奮してキョロキョロ見回しながら「ほう」とか「うわあ」とか言ってうるさい。

 こんな古城のような家で変死体が見つかったら、オカルト狂でなくても神秘を感じてしまうだろう。

 被害者の書斎へ通したのは、自分をメイドと称した石川という若い女だった。

 果たして、洋風に設えた木のドアが並ぶ2階の真ん中の左手の部屋の鍵を開けると、メイドを手で制して現場に踏み込む。

 たくさんの死体を見てきた2人でも、息を飲むほど|壮絶《そうぜつ》な死に顔だったからである。

 外傷はないのだが、目を剝き苦悶に歪み切った顔の輪郭。

 毛髪はまだらに抜け落ち、両手の指の間にむしり取ったと思われる毛が絡みついていた。

 口からは|吐瀉物《としゃぶつ》と一緒に血が吹き出し、喉にはかきむしった跡が生々しい。

 鼻からも下腹部にも、液体と固体が入り混じって、出る物はすべて絞り出したように身体を汚し、臭いが充満している。

「こりゃあ、気の毒な仏さんだな」

 しゃがみ込んで顔を覗き込んだ鷹山が言う。

 現場の写真を撮った後、被害者の妻である麻美の強い希望もあって、朧月を残していくことにした。

 

 井澤は、向かい側の上田の部屋で状況を整理していた。

「まず、|伊藤 彩花《いとう あやか》が5年前に衰弱死した。

 精神的にも、身体的にも追い込まれて、哀れな死に顔だったそうだ」

「それが、呪いのせいだっていうのね。

 他殺だとして、誰かに|怨《うら》みを買っていたのかしら」

 井澤は肩をすくめて見せた。

「友人関係を当たってみたが、個人的な怨みを持っていそうな人物はいなかった。

 だとすれば、一代で財を築いた敬一郎の方だろうな。

 心臓の難病を直す成分を発見したときのニュース記事が出てきた」

「なかなか世に出そうとしなかったために、批判されていたのよね」

 頷いて、先を続けた。

「難病で苦しむ人たちを、早く救ってあげたい気持ちを持てなかったのはなぜか」

「研究者として、突拍子もない夢を追うような彼のテーマが、度々学会で批判されていて、ネットで炎上も起きていたわね」

「教鞭をとった大学では、学生からの評価が低かったようだ。

 授業に工夫がないとか、中身が難しすぎて理解できないとか」

 一息ついて、キッチンから持ってきたコーヒーメーカーで深煎りを落とした。

 香りが張りつめた神経を|緩《ゆる》め、カップに注いでブラックのまま口に運ぶ。

「そうなると、犯人はどこにいてもおかしくないわ」

 椅子に深く腰掛け、天井に視線を移して瞑目した井澤は間を置いてから言った。

「メイドの石川には、裏がありそうだ」

 仕事が終わり、夜になると、部屋に閉じこもったきり出てこない。

 これ自体は珍しくないが、外から観察しても、遮光カーテンをずっと閉めたままである。

 人間の心理として、日に何度か陽の光を浴びたいと思うものだ。

 精神的に不健全な状況なのかも知れない。

「|居候《いそうろう》の橙沢 茜について、興味深い事実がわかったわ」

 廊下の奥に仕掛けたカメラの映像と、石川と橙沢の部屋の盗聴器の音を確かめながら、先を促した。

「敬一郎は、論文以外にもエッセイや小説を書いていて、教え子の友人だった橙沢に意見を求めたり、推敲や事務的な仕事をやってもらっていたらしいの。

 そして、賃金、というよりも高価な服や貴金属をあげていたようね」

「そっちの線か」

「麻美も関係を知っていて、公認で不倫していたようよ」

 

 麻美の部屋は、敬一郎の書斎の向かい側にある。

 夕食を済ませた麻美と橙沢、井澤が2階へ戻り、上田は石川と一緒にキッチンで片付けものをしていた。

 敬一郎が亡くなったとき、警察に通報して調べてもらったが証拠が見つからず、病死とされていた。

 そもそも、呪いで人を殺したとしても殺人の構成要素を満たさない。

 必ず何かあるはずだが、警察に詳しい検死をしてもらおうにも、遺体はとうの昔になかった。

「そろそろ引き際か ───」

 カーテンを開けて外の景色を眺めても、夜の帳が降りた後は街灯と一軒家の明かりがちらほら見えるだけだった。

 そのとき、女の叫び声と物音が廊下に響いた。

 廊下へ躍り出ると、麻美の部屋のドアが開いていて、彼女が|呆然《ぼうぜん》とした顔で立っていた。

「伊藤さん、何か ───」

 言いかけた井澤はその場に立ちつくした。

 彼女の手には鮮血が|滴《したた》るハサミがぶら下がっていた。

 部屋の中を見ている彼女をすり抜け、中へ飛び込むと橙沢が胸から血を流して、あお向けに倒れていた。

 駆けつけた上田が警察に通報すると、鷹山と朧月という刑事が息を切らせて駆けつけた。

 同時に呼んだ救急車が彼女を運ぶ前に、現場の写真を撮ってから、麻美を連れて蕨塚署へ戻って行った。

 探偵としての仕事は、一段落したところだったが、上田が意外なことを言った。

「花ちゃんが、部屋を見せてくれるって」

 驚いて振り返ると彼女は奥の部屋へ向かって歩きながら、ついて来るように手で促した。

 石川の部屋には、小さなテーブルがあった。

 白いクロスをかけて、本物の燭台と、大小の皿やナイフが置かれ、陶器の天秤、魔法陣がかかれた箱など、華やかささえ感じさせる物が並ぶ。

「サクリファイズインカンテーションの関係者の方って聞いて、是非見てもらいたいと思ってたの。

 儀式をやればやるほど、来世で幸せになれるからこんなに揃えちゃった」

 仕事中には見せたことのない笑顔がこぼれ、宝物を|褒《ほ》めて欲しい、とでも言うように一つ一つ手に取って見せるのだった。

 

「あの子が、夫と不倫していたことは知っていました」

 取り調べ室で彼女は、うなだれながらボソリと呟くように言った。

 もう、精魂尽き果てた、という様子で次々に言葉が口を突いてでた。

「もう、何もかもお話します。

 不倫の件は、夫が生前から分かっていましたし、夫が高価な服やハンドバッグ、アクセサリーなどを買い与えているのも見ました。

 会話がほとんどなくて、夫婦の関係は元々あまり良くなかったですし、私は何も言わなかったのです。

 でも、夫が離婚話を切り出してから、許せなくなりました」

「敬一郎さんは不審死をしていますね。

 それについては」

 鷹山は穏やかな口調だった。

「いくら何でも、長年連れ添った夫を殺そうなんて思いませんよ。

 誰かに殺されたような気がするんです」

 語気を強めて言った。

「ただ、あの子にケジメを付けさせようとしました。

 大学に言えば、自主退学を求められる可能性がありますし、就職に響くかもしれないと知ッていました」

 腕を組んで鷹山は黙って|頷《うなづ》いた。

「最近になって、あの子の部屋から毒物の痕跡を、メイドが見つけたのです。

 問い詰めると、隠し持っていたナイフで切りつけられました。

 殺されると思って、持っていたハサミで ───」

 

 捜査の結果、その物質は金属の精練副産物に含まれる劇物だった。

 水に溶けやすく無味無臭なので気づきにくく、手がかりなしに特定するのは困難である。

 食事の中に少しずつ混入して継続すれば衰弱死を装うことも可能である。

 橙沢の胸の傷は軽傷だった。

 刃に厚みがあるハサミで、深く刺すことは困難である。

 そして胸を突くのはありがちな失敗である。

 |肋骨《ろっこつ》が内臓を守っているから、刃が通らないからだ。

 治療が終わるとすぐに逮捕された。

 

 

 5年前。

 帝都大学で教授の伊藤 敬一郎に自作のミステリィを読んでもらい、薬学の見地から意見を聞いていた橙沢は、食事に誘われ関係を持つようになる。

 だが、不倫への罪悪感から別れ話を切り出すと、

「大学にばらすぞ。

 俺には君が必要だし、何かとお互いに利益になるはずだよ」

 などと言い、高価な服やバッグなどを買い与えた。

 いつしか家に住み込みで原稿執筆の手伝いをするようになった。

 娘の彩花からも不倫関係を責められ、神経を張りつめた生活が続く。

「もう、耐えられない」

 思いつめた彼女は、証拠が残らない毒物を調べ、一家全員を殺害する計画を入念に準備した。

 彩花を毒殺すると、敬一郎から疑われるようになる。

 自分から注意をそらすために、魔術信仰のサクリファイズインカンテーションに入っていると噂の石川に、メイドの募集をそれとなく知らせた。

 重い心臓病を患い、治療薬が間に合わず死亡した妹の件は、単なる偶然だった。

 

 事務所に戻った井澤と上田は深煎りコーヒーを淹れたカップを口へ運んだ。

 探偵の仕事は、浮気調査がかなりのウエイトを占めている。

「今回も、浮気がらみか ───」

 心地よい香りが神経を鎮め、身体を軽くしていく。

「探偵は、浮気調査のためにいるようなものよ」

 吐いて捨てるように言った。

「たまには、殺人事件とか警察の捜査に協力するようなデカい山はないかな」

 と言ってみたものの、不謹慎だな、と思い直した。

「直接解決に結びつかなかったけど、殺人事件に関わったと言えるんじゃないかしら」

 井澤は、この話題を打ち切ろうと思い、パソコンのメールチェックを始めた。

 また、身辺調査とペットの捜索依頼があった。

 深いため息をついて、手帳を取り出し、スケジュールを調べ始めたのだった。

 

 

この物語はフィクションです

【プロット:ファンタジー】魔法薬を運ぶ薬草使い、不治の病に苦しむ王女を救うため、危険な森でしか採れない薬草を探す

 フレッドは、両手を茎にかけると腰を伸ばして力いっぱい引っ張り上げた。

「ギィイイ ───」

 マンドレイクの奴が、金属を引っ掻いたような不快な声を出して抵抗した。

 構わずに何本か抜くと、ヒソップの葉を刻んで浸した水に放り込んだ。

 こいつは、変身術を解いたり、回復や解毒にもなる万能薬の元である。

 マンドレイクの薬草ができ上ると、腰のポーチ一杯に詰めて街を出た。

 城門を出たところで、星の砂を足元に蒔いた。

 身体がフッと浮き上がり、目的地の世界樹の森までひとっ飛びだ。

 心臓病を患っている王女を救う薬の素を集めるために、危険な森に足を踏み入れる決心をしたフレッドは、拳をグッと握り直して歩き始めた。

 世界樹の葉を数枚詰んでから、守護神のドラゴンが現れるのを待った。

 果たして、数匹の龍が上空を舞い、口から炎を吐いて襲いかかってくる。

 武器を持たずに突っ立っているフレッドの右手には、アルラウネの涙を結晶させた石が握られていた。

 炎に身を焼かれながらもフレッドは薬草と復活の薬で身体を再生し続け、近づいてきたドラゴンに手を伸ばした。

 飛びつきざまに、奇跡をもたらすとされるドラゴンの鱗を一枚剥がし、しっかりと握ったまま地に倒れたのだった。

 体中が焼けただれたフレッドの上に、小さな妖精が舞い降りる。

 一部始終を見守っていた妖精は、彼の勇気と覚悟に感動の涙を流した。

 魔法薬の効果を高めるとされる、妖精の涙がフレッドの背中を濡らすと、眩い光が辺りを照らす。

 火傷が小さくなり、立ち上がれるようになったフレッドは街へと戻り、最後の力を振り絞って王女のために薬を調合した。

 王女は薬のお陰で元気になり、恩人のフレッド問う。

「なぜ、武器も防具も身につけず、危険な森に挑んだのですか」

 フレッドはポーチからマンドレイクの薬草を取り出すと傷口に塗りながら、

「それは、私が薬草屋だからです、王女様」

 お礼にと用意した財宝を断り、フレッドはまた、まだ見ぬ薬草を求めて野に降りて行くのだった。

【プロット】奇跡の書店月読堂

古書店「月読堂」は、鎌倉の閑静な住宅街にひっそりと佇んでいた。

店主の老人は、いつも静かに本を読み、訪れる客を温かく迎えてくれる。ある雨の日、僕は偶然この店に迷い込んだ。

店内には、古書特有の香りが漂い、無数の本が所狭しと並んでいた。

その光景に心を奪われ、時間を忘れて本棚を巡っていた。

ふと、一冊の本に目を留めた。

それは、革表紙の古い本で、タイトルは擦れた文字で「運命の書」とあった。

その本に不思議な魅力を感じ、手に取った。

ページを開くと、そこには、びっしりと手書きの文字が記されている。

まるで誰かの日記のようだった。

その内容に引き込まれ、読み進めていくうちに、不思議な感覚に襲われた。

日記には、僕自身の過去から現在、そして未来が書かれていたのだ。

まるで、この本が僕の運命を握っているかのように。

恐怖と好奇心に駆られ、一気に最後まで読み終えた。

そして、最後のページに書かれた言葉に、言葉を失った。

「この本を読んだあなたは、運命を変えることができます。

 しかし、代償にあなたの大切なものを失います。」

本を閉じ、店主の老人を見つめた。

老人は、静かに微笑みながら、僕に語りかけた。

「その本は、あなたにとって、運命の一冊となるでしょう。

 しかし、その運命を受け入れるかどうかは、あなた次第です」

僕は、しばらく悩んだ末、本を購入することに決めた。

そして、店を出て、雨上がりの街を歩きながら、本を開いた。

日記には、これから僕が経験するであろう出来事が、克明に記されていた。

その内容に驚きながらも、未来を変えるために、日記に書かれた通りに行動し始めた。

しかし、それは、大きな間違いだった。

日記に書かれた通りに行動するたびに、私は大切なものを失っていった。

友人との絆、恋人との愛情、そして、自分自身の夢。

絶望に打ちひしがれ、全てを諦めようとした。

その時、日記の最後のページに書かれた言葉を思い出した。

「運命を変えることができます。

 しかし、その代償は、あなたの大切なものを失うことです。」

私は、初めてその言葉の意味を理解した。

運命を変えるということは、同時に、何かを失うということなのだ。

日記を閉じ、海辺へと向かった。

そして、波打ち際で、日記を燃やした。

炎が、日記を包み込み、灰となって飛び、海へと流れていく。

僕は、空を見上げた。

雨上がりの空には、虹がかかっていた。

それは、まるで、新たな始まりを告げているかのようだった。

僕は、ゆっくりと歩き出した。

もう、日記に頼ることはない。

僕は、自分の力で、自分の運命を切り開いていく。

【プロット】羽根を失くした天使

 東京の喧騒から遠く離れた、静かな海辺の町。

 古びた教会の尖塔の上で、一人の天使が羽根を休めていた。

 彼の名は、アラクル。

 漆黒の羽根を持ち、堕天使と呼ばれるである。

 アラクルは、かつて天界で最も輝かしい天使の一人だった。

 しかし、彼は、人間を愛しすぎた罪で、天界を追放されたのだった。

 地上に堕ちた彼は、人間と共に生き、苦しみや悲しみを分かち合ってきた。

 ある日、アラクルは、海岸で一人の少女と出会う。

 少女は、莉子という名前で、重い病を患っていた。

 彼女は、生きる希望を失い、ただ静かに死を待っていた。

 アラクルは、莉子に優しく語りかける。

 彼は、自身の過去を語り、そして、人間を愛する心を伝える。

 莉子は、アラクルの言葉に心を打たれ、生きる希望を取り戻す。

莉子は、アラクルに、ある願いを託す。

 彼女の代わりに、世界中を旅して、人々の笑顔を集めてきてほしいというものだった。

 アラクルは、莉子の願いを叶えるため、旅に出ることを決意する。

 彼は、黒い羽根を広げ、世界中を飛び回る。

 旅の途中、アラクルは、様々な人々と出会う。

 貧困、差別、戦争…人々は、様々な苦しみを抱えていた。

 しかし、それでも、彼らは懸命に生きていた。

 アラクルは、人々の優しさ、強さ、そして、愛に触れる。

 彼は、人間を愛しすぎたことで天界を追放されたが、それでも、人間を信じ、愛することをやめない。

 アラクルは、旅の途中で、奇跡を起こす。

 彼は、病人を癒し、争いを止め、人々に希望を与える。

 彼の行動は、人々の心を動かし、世界中に広がっていく。

 そして、アラクルの噂は、天界にも届く。

 天界の長は、アラクルの行動を認め、彼を天界に呼び戻すことを決意する。

 アラクルは、天界に戻るべきか、地上に残るべきか、選択を迫られる。 莉子との約束を果たしたい。

 しかし、天界に戻れば、再び人間と関わることは許されないだろう。

 アラクルは、苦悩の末、地上に残ることを決意する。

 彼は、莉子の元に戻り、世界中で集めた笑顔を彼女に伝える。

 莉子は、アラクルの言葉に涙を流し、感謝の気持ちを伝える。

 そして、彼女は、静かに息を引き取った。

 アラクルは、莉子の死を悲しみながらも、彼女の笑顔を胸に、再び旅に出る。

 彼は、これからも人間と共に生き、彼らの笑顔を守るために戦い続けるだろう。

 数年後、アラクルは、再びあの教会の尖塔に立っていた。

 彼の羽根は、黒から白へと変わっていた。

 それは、彼が再び天界に受け入れられた証だった。

 しかし、アラクルの心は、今も人間と共にあった。

 彼は、地上を見下ろし、人々の笑顔を見守る。

 そして、静かに呟く。

「私はこれからも、人間を愛し続ける。

 たとえ、それが罪であっても」

 アラクルは、白い羽根を広げ、空へと舞い上がった。

 彼は、永遠に、人間を見守る天使となるだろう。

【小説】異世界への手紙を見つけた郵便局のフリーター、禁断の封印を解く

レゴラス・グリーンリーフ」こと、遠藤 誠は郵便カバンの中から洋封筒を取り出した。近所の通りには、大きく番地を書いた電柱と、縦書きの表札が規則正しく並ぶ。賃貸アパートの一角で、手元を見た誠は凍りついた。「何の冗談だ ───」呟いたきり視線は宛名に釘付けになる。「伝説の英雄 アレクシス・ブレイブハート様」とあったからだ。定職に就かずフリーターをしていた遠藤は、たまたま郵便配達をしていたのだが、始めるとプロ意識が出てきた。住所を間違っていたり、ヘタクソな字で読めないときでも、だいたいの当たりをつけて聞いて回り、届けなくては気が済まなくなっていたのだ。しかし、これは質の悪い冗談では、そう思った彼だが、次第に心の底から燃え上がる情熱に駆られたのだった。

 

 

 軽く地面を蹴って、滑らかにスクーターを発進させた|遠藤 誠《えんどう まこと》は、腰のあたりに下げたカバンを探った。

 ひょいと手紙の束を取り出すと、電柱の脇に止まって宛名を確かめた。

 電柱には「|帳塚《とばりづか》3丁目」と緑字に白抜きで書かれ、東京電力のマークも目に入った。

 毎日同じところを回っているから、確認しなくても分かるのだが、つい見てしまう。

 普段はあまり意識しない賃貸アパートが、近所にも意外と多くて、規則正しく|縦《たて》書きや横書きで表札が並ぶ。

 古臭いアパートの縦書き表札を見ながらポストに手紙を差し込んでいくと、一通の封筒を見て凍りついた。

「何だこれ、何の冗談だよ」

 思わず大きな声を出してしまった。

 宛名は「伝説の英雄 アレクシス・ブレイブハート様」とあった。

 何度も読み返して、目を|瞬《しばたた》いた。

 配達をしていると、すぐに家と苗字が頭に入る。

 記憶力に自信がなくても、家の特徴から人の営みを感じると頭にイメージが形作られる。

 そして、手紙の体裁や|頻度《ひんど》、差出人などから中身を大まかに予想できた。

 ある時は、あからさまなラブレターを手に取り、温もりを感じた。

 あらゆる可能性を頭をフル回転させて|模索《もさく》した。

 アルバイトとはいえ、今まで一度も配達を|諦《あきら》めたことはない。

 名前さえ書いてあれば、住所がなくても届けられる自負はあった。

 アレクシス・ブレイブハート、実在の人物なのだろうか。

 伝説の英雄とは、何を意味するのだろう。

 考えを巡らせ続けるうちに、頭に熱を帯びてきた。

 呼吸が早くなり、心臓が波打つパルスを全身に走らせ、皮膚を膨張させる。

 軽いめまいを感じて、バイクにもたれたとき身体がすっぽ抜けて落ちていく感覚に襲われる。

 |脂汗《あぶらあせ》が|額《ひたい》から|頬《ほお》へと伝い、|一滴《ひとしずく》落ちていった。

 ストンと何かに腰かける感覚と共に、暗い世界へと意識が消えていき、手紙を胸にギュッと抱きしめたままどこかへ落ちていくのだった。

 

 |霞《かすみ》がかったような意識の中で、響いてくる言葉を聞いた。

「我が名は竜騎士バルドル

 久しぶりに会う、勇気ある者よ、我の元へ|集《つど》え ───」

 目を開けたが、真っ暗で何も見えなかった。

「うむ、『レゴラス・グリーンリーフ』よ、お前にはこの棒を授けよう」

 頭に直接響くような、重々しい声と共に一本の古びた棒が右手に吸いつくように握りしめられた。

 手紙と棒を力いっぱい身体に押しつけ、ゆっくりと回転する感覚に襲われ、流れに身を任せた ───

 

「あの、大丈夫ですか」

 青臭い草と土のにおいを風が運び、|鼻腔《びくう》を突く。

 太陽の温もりが身体を軽くし、視界を明るくした。

 肩に手をかけた女が、力任せに引き起こしたのだ。

 ゆっくりと|瞼《まぶた》の|隙間《すきま》に光が差し込み、空の色を感じた。

 |唸《うな》るような声を出しながら、手にしっかり握っていた棒を杖代わりにして地面に突き、身を起こそうとした。

 その時、草むらから巨大なイノシシが飛び出したかと思うと、猛然とこちらへ向かって突進してくる。

 何が起こったのか判断する前に身体が動いた。

「フラーマ」

 謎の言葉を吐いた女の声が、若いな、などと思いながら突き出された自分の手には汚い棒一本しかなく、武器としては心もとない。

 次の瞬間、断末魔の悲鳴が耳をつんざき、黒焦げになったイノシシの巨体が地面に転がった。

 口をポカンと半開きにしたまま、女の方へ視線を移すと黒い布に身を包んだ小柄な姿がイノシシに近づいて行った。

「何をしたんだ」

 改めて見ると、体長3メートル以上はある巨大な黒い|塊《かたまり》と周囲の草むらが、凄まじい炎で焼かれたのだと分かった。

「私の魔法だけでは、こんなにならないはずだけどな」

 |怪訝《けげん》な顔を向けてきた女は、汚れた杖を凝視していた。

 

 杖を握った手には、脂汗が|滲《にじ》み女の視線がさらに身体を硬くさせた。

「これ、魔力で鍛えた杖なんですか」

 自分に対して質問を投げかけているようだが、口をパクパクして硬直した身体を何とか緩めないと手が|攣《つ》りそうだった。

「燃えた ───」

 3メートル以上の巨大イノシシが突進してきて、一瞬で黒焦げになって倒れる。

 そしてこの女は魔力がどうとか言って、汚い棒を見ている。

 ここは草原で、配達の途中だったはずの街は消えた。

 その時、|肋骨《ろっこつ》のすぐ下から、突き上げる|衝撃《しょうげき》を受けて小さく|呻《うめ》き、地面に丸くなって横倒しになった。

「ぼんやりしないでよね。

 また何か出るかも知れないんだから」

 右拳を腹の高さに突き出したまま、目をぎらつかせた女が吐き捨てた。

 もう一度、杖を地面に突き立てて身を起こすと、女が油断なく周囲に視線をやりながら言った。

「私はサキュバスリリス、あなたは ───」

「俺は、レゴラス・グリーンリーフ」

 一発食らって、頭のもやもやが晴れていた。

「この杖は、魔力を秘めているでしょう」

 硬い声でリリスが繰り返した。

 先ほどのような恐怖が身近に迫っているのだ。

 身体の毛穴から汗が滲み出る。

 ガサガサッと右手の草むらが|騒《ざわ》めくと、一歩|退《ひ》いて杖を向ける。

 呼吸音が風の音よりも大きくなり鼓動が、うるさいほど脈を打つ。

「もういないようね。

 イノシシは群れを作らないから」

 初めてリリスは、レゴラスの方へ身体を向けた。

「で、この杖は何よ」

 ついに怒気を込めて彼女は詰め寄ってきた。

 3歩後ずさりをして、右手に固く握ったままの棒を顔に近づける。

「『セレスティアルワンド』と、竜騎士バルドルが言っていた ───」

 何か、凄い力を秘めた杖を、伝説の竜騎士様がくださったのだと思っていたので、リリスの反応を待っていた。

 だが、鼻を鳴らして、

「ふうん、へえ」

 と言ったきり|踵《きびす》を返し、付いてくるよう手招きして、歩き始めたのだった。

 

 遠くに城のような影が見える方向へ、かなりの距離を歩いていくとはっきりと城門を視界に捉えるところまで行きついた。

 キョロキョロと見回し「へえ」などと言いながら、のけぞって城門の上の方を指さして「でっかいな」と目を輝かせて言うレゴラスに、大きなため息をついてリリスが言った。

「ここはエトランシア最大の街、テイシアだ。

 恥ずかしいからキョロキョロするな」

 城門に近づくと、身長の2倍ほどもある|槍《やり》を立てた衛兵が、

「見ない顔だな」

 ジロリと|睨《にら》みつけてきた。

 門の両脇に立っていた、2人の兵士が槍を交差させて行く手を|阻《はば》む。

「商人なら手形を見せろ。

 ないなら、ここへ来た目的を言え」

 足先から頭の先まで視線を|這《は》わせながら、身の|竦《すく》むような威圧感で押しつぶされそうになった。

 |咄嗟《とっさ》に、腰に下げていたカバンから一通の手紙を取り出した。

 「貸せ」とひったくるようにして手にした兵士は、|宛名《あてな》を読み上げる。

「なにい、『アレクシス・ブレイブハート様』だと ───」

 |怪訝《けげん》な顔で言うと、手紙を投げ返した。

「俺、私は郵便物を届ける仕事をしています。

 これを届けたらすぐに帰りますんで ───」

 ペコペコと小さく頭を下げながら、へへへっと笑い|愛想《あいそ》を使った。

 それが功を奏したのか、兵士も表情を崩し、

「まあ、怪しい奴ではなさそうだ。

 リリス、お前の知り合いか」

 と彼女に確認すると、槍を引いて戻って行った。

「助かったよ」

 笑顔を作ってみたものの、彼女は口をへの字にしたままだった。

「私も、あんたのことを知らない。

 街へ入るのに、独りだと何かと面倒だから合わせただけだ」

 首筋の辺りを|掻《か》きながら手紙をリリスにも見せた。

「これを『アレクシス』に渡すのか ───。

 手がかりはあるのか」

 |頭《かぶり》を振って、肩をすくめた。

 すると、のけ反るようにして、どっと笑った。

「面白い奴だな。

 その杖も、竜騎士も、良く分からないって顔してるところが気に入ったぞ」

 レゴラスの|眉間《みけん》を、指で差してこらえていた笑いが吹き出した、といった風に腹を押さえて身を丸めたまま肩をゆすった。

 そんな彼女を見て、今度は自分も|可笑《おか》しくなって笑ったのだった。

 

 まずは情報集めだ、と定番の酒場を探そうとすると、

「なぜ酒場なんかへ行くんだ」

 信じられない、という顔をしてリリスは広場に面した建物に入っていく。

 子どものころプレイしたRPGでは、酒場で情報集めをするのが当たり前だった。

 だがその程度の知識しかない、とも言えた。

 確かに、情報化社会では酒場に情報集めに行く者などいない。

 でもこの世界は ───

 大きな木戸を開けると、広間に|沢山《たくさん》の冒険者が集まっているようだった。

 どこかのゲームで見たような、魔法使いのローブや剣士の|鎧《よろい》、ファンタジーのコスプレかハロウィンパーティかと思うような光景だが、どれも本物なのだろう。

 高ぶる気持ちを必死に抑え、伝説の英雄・アレクシス・ブレイブハートのイメージに合う者がいないか目を皿のようにして一人一人目で追った。

「やあ、新入りかい。

 あんた、魔法使いかヒーラーってとこかな」

 振り向くと、大きな剣を|佩《は》いた女が微笑を浮かべてこちらへ近づいてきた。

「彼女はアリア・スターダストだ。

 大陸一の俊足と評判の、腕利きの剣士さ」

 リリスが耳打ちをする。

「俺は、この手紙の宛名の人物を探している」

 この世界の雰囲気に慣れてきたレゴラスは、努めて|大仰《おおぎょう》な態度で言った。

「伝説の英雄だって、そんな奴いくらでもいるさ。

 自称英雄ばっかりが集まって、|屯《たむろ》しているようなところだからな」

 ふんと鼻を鳴らして、レゴラスの顔つき、身体の筋肉と立ち居振る舞いを鋭い視線で見極めようとしているようだった。

「で、リリスは私ともう一度旅する気になったかい」

 口元に拳を当て、思案顔のまま黒いローブのサキュバスに顔を向けた。

「ふふ、こいつは面白いことになりそうだな。

 竜騎士バルドルからセレスティアルワンドを授けられた冒険者と、腕利きの剣士、そして夢魔である私か ───」

「もしかして、今度は本気で伝説の英雄を追うつもりか」

 アリアの問いには答えず、リリスは壁際に寄りかかって書類の束を読んでいる男の方へ歩いていく。

 口元の笑みが、出逢った2人の冒険者との共感の光を心に灯したように感じたのだった。

 

 尖った耳と切れ長の目をした男は、リリスに気づくと書類から視線を上げた。

「やあ、オベロン・キング・オブ・フェアリーズ」

 小さくため息をついて、レゴラスを認めると言った。

「こちらは、いや、ええと ───」

 進み出て自己紹介しようとしたが、リリスが手で制した。

「フェアリーとエルフの血を受け継いでいる。

 長く生きているし、人脈が広い。

 森の情報通で、彼に聞けば手がかりを知っているかも ───」

 しきりに|唸《うな》って、床を睨みつけていたオベロンが口を開いた。

「あなたは、明確な目的を持ってここへ来ましたね」

 カバンの中から例の手紙を取り出して言った。

「郵便配達をしていたら、これを見つけて届けに来た。

 いつの間にか、リリスとアリアの仲間みたいになっているけど、これをアレクシスに渡したら帰るつもりだ」

「なるほど、だからパッと見ても分からなかったのですね」

「どういうことだ」

 リリスが聞き返す。

「この人は、途方もない彼方からやって来たのです。

 そして、アレクシスに会うですって、やめた方が良い」

 大きく|頭《かぶり》を振った。

「知ってるのか、会わない方がいいって、なぜなんだ」

 レゴラスの鼻息がかかるほど詰め寄る。

「やっぱり、あのアレクシスなのか ───」

 アリアが顔を|顰《しか》めた。

 アレクシスは、ロダニア山へ何度も|赴《おもむ》き強力なモンスターを次々になぎ倒し、伝説の英雄達を助け、自らも魔導師と剣術士ギルドマスターを務めたほどの実力者だった。

 しかし、激しい気性から、冒険者たちとの折り合いが悪く、度々|喧嘩《けんか》をして出て行ってしまったのだ。

 人間に対しても平気で|禁忌《きんき》を破って魔法を使い、気に入らなければ殺す。

 街に出ては武器や食料を奪い、抵抗すれば魔法で|脅《おど》す。

 残忍で自己中心的だという評判だった。

「探すと言っても、どこに行けば会えるかさっぱり分からないな」

「そうでもありませんよ」

 窓の外へ視線を外したオベロンは|呟《つぶや》いた。

「森がきっと、運命の糸を|手繰《たぐ》り寄せます。

 この手紙には、強い念が込められていますから ───」

 

 テイシア城の最上階からは、遠くの山々が青く|霞《かす》む。

 人払いをした執務室には、2人の男が立っていた。

 外を眺めていたのは白髪の老人だが、両眼には赤々と燃える光を|湛《たた》え、ギラリと|見据《みす》える威圧感は心の臓を|鷲掴《わしづか》みにするような迫力だった。

「国王、ライオス様、例の手紙を、|誠《まこと》の心を持つ者へ、セレスティアルワンドと共に|託《たくす》しました」

バルドルよ、アレクシス・ブレイブハートは、今どこにいるのだ。

 やはり、ワシ|自《みずか》らが出向いた方が ───」

 腰の宝剣を|刷《はだ》いた手を止め、|柄《つか》にかけた。

 かつて最強の勇者と呼ばれ、伝説の幻獣たちとも渡り合ったライオスならば、単独で出向いても良いのかも知れない。

 実際、大型モンスターが|闊歩《かっぽ》するロダニア地方へ、ふらりと出掛けて行ってしまっていた。

 ため息をつき、身を案ずるというよりも、いつもの決まり文句を|抑揚《よくよう》なく繰り返すのだった。

「国王陛下が激戦区に出向けば、敵の的になりますぞ。

 作戦|遂行《すいこう》の妨げになるばかりか、軍の統制を乱しかねません」

 今度はライオスがため息を吐いて肩をすくめた。

「アレクシスは良い戦士じゃ。

 だが誤解をされやすい性格が|禍《わざわい》して、単独で戦っておる。

 『武』に純粋すぎるのだ ───」

 |物憂《ものう》げな言葉とは裏腹に、口元には笑みを浮かべていた。

「さすがのワシも、そろそろお迎えがくる歳だ」

 ふっと、目に湛えた怒気を消し、影が差した老王は椅子に腰かけるとバルドルにも勧めた。

「そんな弱気を|仰《おっしゃ》っては ───」

 テーブルに置かれた剣の宝玉には、燃えたぎる炎がゆらめいている。

 火の属性を極め、最高レベルの魔力と俊足、そして|膂力《りょりょく》を持って振るえばたちまちすべてを|灰燼《かいじん》に帰す。

 この世で最も強い戦士は、魔法を極めた魔導師でも、肉体を極限まで鍛えた剣術士でもなく、魔力で鍛えた武器を|携《たずさ》えた、すべてのバランスを体現した戦士なのである。

「アレクシスは、乱世そのものだ。

 時代を駆け抜けるために生まれ、散っていくのではないかと心配でな ───」

「国王陛下、この地上には伝説の勇者ライオスに匹敵する者などおりません。

 ですが、若い者たちの成長を信じてください」

 

 テイシアを出てから、3人のパーティは|襲《おそ》い掛かるモンスターを斬り、焼き、無傷でロダニアの森へ|辿《たど》り着いていた。

 腰のカバンに目をやると、手紙を渡す責務を果たすために、|随分《ずいぶん》遠くまで来たものだとしみじみしていた。

「今度は大物だ、私が一太刀浴びせたら焼き殺せ」

 アリアが自慢の足で敵の|懐《ふところ》に飛び込み、リリスの魔法で畳みかける。

 必勝パターンができ上っていた。

 だが、想定外の展開が起こる。

 背丈が人間の2倍ほどあるトロルは、手にした|棍棒《こんぼう》で足元をガードして守勢一辺倒の作戦を取ってきたのだ。

 勢い余って棍棒に剣を突き刺してしまったアリアが、宙高く放り投げられ、地面に叩きつけられ気絶した。

「アリア!」

 レゴラスは駆け寄ろうとしたがトロルの棍棒の方が速い。

「フラーマ!」

 |渾身《こんしん》の力で火球を飛ばすが、それも棍棒で弾き飛ばす。

 レゴラスは我を忘れ、セレスティアルワンドを投げつけようと振りかぶった。

 その時 ───

 全身が硬直して動けなくなった。

「よお、お前、その棒きれをどこで拾った。

 てか、投げてどうすんだよ、バカかお前。

 ほれ、ほれ、俺に貸してみろ。

 てめえみたいなバカが握ってちゃあ、秘めた力を出す前に叩き折られちまうぞ」

 突如背後に現れた男は、セレスティアルワンドを取り上げると、片手でリリスのローブを掴み、ブンブン振り回してからトロルめがけて投げつけた。

 悲鳴を上げて一直線に飛んでいく彼女は、涙を流し顔をくしゃくしゃにしてもがいた。

「はあ、みっともねえパーティだな。

 ほんじゃあ、軽くいってみるか」

 片足をスッと前に擦り出したかと思うと、棒を一振りして小声で何かを|呟《つぶや》いた。

 凄まじい火柱がトロルの足元から立ち上り、一瞬、断末魔の悲鳴を聞いたきり、炎がゴウゴウと上っていく軌跡と一緒に黒い塊と化し、粉々に灰が散って消えた ───

 

 謎の男はセレスティアルワンドをレゴリスの手に握らせると、射るような目を向けた。

「おい、か弱い女2人を守れない、もっとか弱い虫けら君よお。

 何か、裏があるな。

 このアレクシス・ブレイブハートに話してみな」

 燃えるような|蓬髪《ほうはつ》をなびかせ、獣のようにしなやかな|体捌《たいさば》きでにじり寄ってくる。

「殺される ───」

 遠くで伸びている2人の女戦士の方へ視線をやると、心細さが手足の力を奪い、腰が抜けて座り込んでしまった。

 震える手で郵便カバンをゆっくりと開け、手を差し入れるが、他人の手のように硬直して震え、指が思うように物を|掴《つか》んでくれなかった。

「今、アレクシス・ブレイブハートと ───」

 かすれた声を絞り出し、涙ぐむ目で男を見上げる。

「ん、何か他にも ───」

 カバンに手を無造作に差し入れた男は、一通の手紙を取り出して|摘《つ》まみ上げた。

「何だこりゃあ、字が書いてあるな。

 お前、読んでみろ」

 ふんと鼻を鳴らしてドカリと腰を下ろし、あぐらをかいて腕組みをして目を閉じた。

 手紙の封を切ると、レゴラスは心を奮い立たせて読み始めた。

 黙って聞いていた男は、大きく一つ|頷《うなづ》き、レゴラスに手を差しだした。

「俺の名は、さっき言ったな。

 ライオスのオヤジが言うんじゃあ、お前さんも選ばれた戦士ってわけだ。

 何があるのか知らねえが、せいぜい死なねえように守ってやるぜ」

 手紙を読み終えると、魔力の炎に包まれ|塵《ちり》になって飛んでいった。

「一緒に来い。

 足手まといだが、連れてってやるぜ」

「あの、どちらへ」

「決まってんだろうが、ロダニア山の向こうへ行って、ドラゴンの親玉をシメてやるのさ」

 2人の女戦士は、ようやく気がついたのか身を起こし、こちらを見て後ずさりをした。

 振り返ると遠くにテイシアの平原が広がっている。

 これからどんな冒険が待ち受けているのか。

 青く霞む山々は、試練の先にまた試練をもたらすのだろうか。

 

 バイクにもたれかかっていた誠は、暖かい日差しを受けてぼんやりと薄目を開けた。

 時々路地を通る車の音が通り過ぎ、|雀《すずめ》の鳴き声が耳をくすぐる。

 軽く目頭を押さえると、握っていた手紙の宛先を確かめる。

「山田 実様、と」

 マンションの集合ポストへ手紙を次々に差し入れていく。

「しかし、変な夢を見たな ───」

 手足に|疼《うず》く痛みに|呻《うめ》き、腰のあたりを|擦《さす》って、またバイクにまたがった。

 スロットルに手をかけた|刹那《せつな》、手紙の宛名に視線を落として手を止めた。

「何だこれは、『レゴラス・グリーンリーフ様』だって ───」

 

 

この物語はフィクションです

 

【小説】ガラクⅤ 雨上がりの蒼穹

ラクはある日突然、自分が殺し屋と軍人の娘であることを知る。そして自らの身体にも、戦いのサラブレッドとしての血が流れていた。両親の師匠にして親代わりでもあるレックスの紹介で、民間軍事会社ガルーサ社で軍人としての第一歩を踏み出す。そこで待っていたのは、死んだと言われていた母ゼツだった。最新鋭の戦闘機でやってきた母に連れられて、中東のアルバラ共和国パルミラ基地を目指す。基地を目前にしてパルミラの手練れに囲まれるが、父ラルフと仲間の機転で切り抜けることができた。懐の深い司令官クリスは、ゼツとガラク、ラルフに給油を許した。山岳基地パルミラに降り立ったガラクとゼツ。突然襲ってきたスパイ狩りを退けた後、彼女たちを待ち受けていたのは頼りになる、あの老人だった。

 

 

「しかし、お前さんも損な役回りだな」

 白髪頭を掻きむしりながら、ハーティ・ホイルが人懐っこい笑みを浮かべた。

「ナセルとは、殺し合う理由がない。

 成り行きで敵同士になってしまっただけさ ───」

 窓の外には黒くそそり立つ山が連なり、先ほどから降り始めたにわか雨が視界を濡らしていた。

「ほれ、砂漠も悲しいとさ。

 天気ってやつは、意外と人間の心を写しているものさ」

「確かに、今日は湿っぽくなる気分かも知れないな」

 計器の上に手を突いて、クリスは黒い雲に覆われた空をぼんやりと見上げる。

 灼熱の砂が広がる平地と、荒々しく尖った岩肌は、人を寄せ付けない|過酷《かこく》なアルバラという風土がもたらす風景である。

 そして泥沼化する紛争が、大きくなり続けて今に至る。

 戦争が起これば武器を売り込みに商人がやって来て、敵味方関係なく金さえ払えば武器を売る。

 つまり、金が尽きた方が負けるのが、現代の戦争である。

 個人の信念よりも、最新の武器に、とりわけこの地では戦闘機を手に入れなくてはならない。

 その戦闘機を手足のように操るパイロットも|勿論《もちろん》である。

「政府軍も、反政府軍も、ドッグファイトにおいては外人部隊の敵ではない。

 ほとんど七面鳥撃ちだ」

「そいつは、死線をくぐったエトランゼの連中が特別なのさ」

 頭を抱えてクリスはハーティに背を向けた。

「俺は、時々恐ろしくなる。

 自分が、ただの|殺戮《さつりく》をしているのではないかと ───」

「ワシも同じさ。

 武器を売っていれば、戦争を大きくしているようなものだ。

 そろそろ潮時だと思っている。

 お前さんのように、自分の行く末を本気で考える人間が近頃増えてきた。

 お陰で、ワシも自己嫌悪に駆られるようになってな」

 ツカツカとドアに向かって歩いて行くと、老人は背中を向けたまま言った。

「国を捨て、信念を捨て、家族を捨て、人生を捨て、未来を捨て、魂を捨てても残った物がある」

「それは、何だ ───」

「『男の尊厳』だよ」

 

 ホーネットのダークグレーの翼が、地上の目標を捉えようとしていた。

 山岳地帯へギリギリの高度で侵入すると、地上からは視認しづらくなる。

 平地へ出る瞬間、地対空ミサイルが雨あられと襲いかかってきた。

 センサーが反応し、けたたましい音と共に視界が赤く囲われる。

 機体をロールさせながら、真っ直ぐに斬り込む。

「ビービーうるせえ。

 ミサイルが来てるのは分かってるんだ。

 |喚《わめ》くんじゃねえ」

 |操縦桿《そうじゅうかん》をわずかに引き、爆弾を投下すると同時に戦車へ20ミリバルカン砲の雨を浴びせる。

「戦車がウジャウジャ居やがる。

 もう一回積んで出直すぞ」

「おい、ラルフ。

 あまり入れ込むなよ。

 ミッションはほぼ達成した」

 上空を旋回して、敵戦闘機を|威嚇《いかく》していたホワイトの声だった。

 装甲車の群れを攻撃し、正規軍の補給路を断つ目的はほぼ|完遂《かんすい》していた。

 後方の砂漠から、石油が燃える黒い煙を確認すると、ふうと一つ息をついた。

「それもそうだな。

 全機、帰投する。

 燃料が少ない者から先に行け」

 ラルフは2機を引きつれて、また低空飛行でアル・サドンを目指した。

 陽が沈みかけ、雨雲が砂漠に暗い影を落とす。

「荒れそうだ。

 雲の上に出ろ」

 ホワイトの指示に従って、3機は暗い塊を突き抜けていく。

 真っ暗な視界から高度計に視線を移すと、3000メートル程の高さで雲の上に出た。

 ウソのようにカラッと陽が差して沈む太陽を認めた。

「また雨か。

 ラルフが来てから、増えた気がするな」

 ふと、ラルフの脳裏に娘の顔が浮かんだ。

 そして胸騒ぎが、呼吸を苦しくさせた。

「中東の先輩として言わせてもらうが、感情的になるなよ。

 任務を冷静に遂行していれば、生き残って地上へ降りられる。

 お前には家族がいるのだから、無駄死にはするな」

 ホワイトの声は、珍しくトーンダウンしていた。

「ホワイト、お前こそ他人の心配とは、ヤキが回ったんじゃないのか」

 4機は横に並び、渡り鳥のように上になり、下になり、風に身を任せるように揺らいでバーナーの尾を引いて行ったのだった。

 

 ライトニングⅡを納めたハンガーに戻ったゼツは、木箱の山の隅に腰を下ろした。

 後ろに束ねた髪をほぐし、もう一度縛り直すと、ガラクの方に視線を向けた。

「どうしたんだい。

 そう気を張っていちゃあ、いざって時息切れするぞ」

「お母さんこそ敵地の真ん中で、髪を結び直してる場合なの」

 油断なく倉庫の隅々まで見回し、突っ立っている娘の姿が|可笑《おか》しくなってゼツは吹き出した。

「あははは、違いないな。

 お前の方が正しいよ、きっと」

 すっくと立ち上がると、一緒になってキョロキョロ見回して、また笑い出す。

「私のこと、バカにしてるわね」

 |頬《ほお》を少し|膨《ふく》らませて、口を尖らせた。

「恐怖も緊張も、生き残るために必要な感情だよ。

 私だって、家でのんびりしているときと一緒じゃないさ」

 脇に仕込んでいたベレッタを抜き、何かを確かめるように眺めたまま母の目尻がわずかに引き|攣《つ》るのを認めた。

「何」

 背後で何かが動いた。

 全身の毛穴が開き、髪がふわりと浮く感覚と、足元がどっしり地面に食いつく感覚。

 ファリーゼで銃撃戦を初めて見て、死を直感した時と同じだった。

 ゆっくりと身体を|捻《ひね》り、視界に捉えたのは美しいブロンドの長髪でスラリとしたファッションモデルのような若い娘の姿だった。

「あんたたちは、正義の女神アストライアか」

 銃をホルスターに収め、足で地面を|擦《す》るように、滑らかな足取りで近づいてくる。

「あ ───」

 彼女の挙動には無駄がなかった。

 |隙《すき》のない身体には、心を素手で|掴《つか》まれるような重い|威厳《いげん》が備わっていた。

「わ、私はガラクよ。

 母のゼツは強いけど、私はからきしでね」

「私の名前はナット・ジェナー。

 この状況では、こっちが死に|体《たい》なんだけどな ───」

 喋りながら徐々に口元が緩み、ついに腹を抱えて笑い始めた。

「ガラク、私はちょいと大人の用事をしてくるから遊んでおいで」

 優しく娘を|愛《いと》おしむような|双眸《そうぼう》に、ジェナーは軽く会釈してガラクを引っ張って奥へと消えていった。

 

 アルバラ共和国空軍基地である、アル・サドンは元々中立的な立場だったが戦況が|芳《かんば》しくない反政府軍を支援する外人部隊になった。

 総司令官のナセルは政府軍外人部隊にいるクリスと旧知の中であり、戦友でもある。

 物静かで闘志を内に秘めるタイプだが、愛機クフィルのコックピットに収まれば、軍神マルスと見紛うばかりの勇敢さと、虎をも射殺す|獰猛《どうもう》さを|露《あら》わにする。

「ホワイト、塩取ってくれんか」

「ほい、投げますよ」

 ほぼ直線を描いて飛んだ味塩が、ひょいと上げた右手に乾いた音と共に収まった。

「ほれ、お前も使え、アリー」

 戦闘機乗りとして、超一流の腕前を誇る3人は、何度も共に死線をくぐった仲間と言って良かった。

 簡易食堂のトレーを並べて ゆで卵 とカレー、サラダとスープを口に運ぶ姿に階級差は感じられない。

「最近のラルフの活躍は、神がかっているな」

 他人事のように、アリーが言った。

「この前は『戦車がウジャウジャいやがるぜ』なんて言って、もう一度出ようとしたが基地に帰らせたんだ」

「ほう、娘には会えたのだろう」

「そのようですが、妙に張り切っていて少々心配です」

 スプーンを止めたナセルは、思案顔で遠くの壁を眺めていた。

「彼は、根っからの軍人ではないと思います」

 ホワイトも手を止めた。

「と言うと ───」

「我々よりも、遥か未来を|見据《みす》えて生きている。

 そんな感じがするのです」

 カチャリと食器を乗せたトレーを持ち上げたアリーは、ホワイトの言葉を聞いて表情を引きしめた。

「我々に、未来はあると思うか」

「いいえ、未来を捨てた人間が叫び、踊るために集まるのが戦場というものです」

「違いないな。

 作戦会議の前に、奴のホーネットのガンカメラを確認しただろう。

 どう思った」

「正直、敵には回したくないですね。

 挙動に理解不能なニュアンスを織り交ぜて、最短距離で敵に向かい正確無比の攻撃をしていました」

アル・サドンの元ナンバーワンであるアリーも舌を巻くか ───」

 そんな話をしながら、3人は管制塔へと引き上げて行った。

 

 敵の基地に潜入しているというのに、娘は若い友人でも見つけたかのように共に笑った。

 そしてゼツ自身も、自分に向けた殺気がほとんど感じられないことに違和感を感じていた。

アル・サドンのゼツ・ノエル・オリベールです」

 管制塔まで来るようにと、整備兵に言われてやって来たが、ドアは開け放たれて、廊下をジョギングしていた兵士も|一瞥《いちべつ》しただけで走り去って行った。

 レーダーを見ていたクリスが振り向くと、握手を求めてきた。

「司令官のクリスティ・ドゥイ・ブロトン大佐だ。

 あなたに撃たれたファリド・ハッサンは、故郷のアラブに送ったよ。

 鮮やかな手際だな。

 正規軍には『スパイなど、くそくらえだ』と打っておいたぞ」

 両手を小さく上げて、降参した、というポーズを取りながら言った。

「戦闘機ではお宅の若い兵士に撃ち落とされそうになったがね。

 地上に降りれば私の土俵だよ」

「ガルーサ社の大佐だそうだな。

 うちにも何人か来ている。

 まあ、外人部隊の人間関係は複雑だ」

 外に目をやると、陽は沈み、雨粒が窓ガラスを伝って流れていた。

「ナセル指令から、クリス指令によろしくと言われてね」

 やや厚底の靴を手で取り上げると、|踵《かかと》の部分から小さなチップを取り出した。

「これは ───」

「パスワードは『ガラク』、私の娘の名だ」

 コンピュータでデータを開いたクリスは、頬に拳を当てて|唸《うな》った。

「そういうことだ。

 総力戦に備えて、お互いに無益な血を流さないための措置だと思って欲しい」

 収められていたのは、最後の決戦になったときに基地を捨て、正規軍を切り抜けて再起を図るための飛行ルートと、落ち合うポイント、そして使用する暗号などだった。

「やはり、ナセルも感じているか」

 正規軍には、最後まで守り抜く国がある。

 だが、外人部隊は寄せ集めの雇われた兵士である。

 敵味方に分かれているからと言って、崩壊しようとしている国のために死ぬ理由はない。

 まして、ナセルもクリスも旧知の仲である。

「内通を知ってしまった者は、始末されるのが世の常だが ───」

 シールドという、ポピュラーな拳銃を腰にピッタリ押し付けたまま、銃口をゼツに向けた。

「まあ、|流石《さすが》にそう来るだろうな」

 両手を上げて、目を伏せたゼツはクリスの言葉を待った。

 だが何も言わず、銃をホルスターに収めてクリスも窓ガラスの雨粒に視線を移した。

「ホーネットのパイロットだが」

「ああ、私の夫、ラルフのことかい」

 雨粒の向こうには、底知れぬ闇が広がっていた。

「奴は、死ぬかもしれないぞ」

 

 ジェナーと肩を並べて談笑して歩くガラクは、|傍目《はため》には友達同士でお喋りを楽しむ若者に見えた。

「へえ、じゃあ軍隊に入ってからまともな訓練も受けずに、ここに来たってわけ」

「そうなの。

 銃の扱い方だけはレックスに教わったのだけれど、実戦で敵を撃つには足りないものが、まだまだ|沢山《たくさん》あるわ」

 その時、背後に積まれた木箱の山の影から、誰かが近づいてきた。

 身を隠すでもなく、堂々として足音を高く響かせながら。

「ライトニングⅡに乗っていた、若い方の女か」

 ため息をついて肩をすくめた。

「あなた、盗み聞きしてたのね」

「当たり前だろう、敵の兵士と、こんなに目立つところで話をしていて、何事かと思って聞いていたんだ。

 クリストファー・キンバリーだ。

 昼間あんたのライトニングⅡに狙いをつけて警告したのは俺さ」

 目つきが鋭くて、気後れするほど威圧感があった。

 だが顔つきは丸みがあり、幼さが残っている。

「それで、なぜ外人部隊に来たの」

 ガラクを2人の視線が射貫いた。

 改めて問われると、理由が分からない。

 ポカンと口をパクパクしたまま、周囲をキョロキョロと見回すだけだった。

 ジェナーはまた、どっと腹を抱えて笑いだした。

「ほら、おもしろいお嬢さんでしょう。

 出来の悪いコントみたい」

 指を指してゲラゲラ笑う彼女を見て、ガラクも|可笑《おか》しくなった。

 そしてキンバリーも口角を引き|攣《つ》らせて、クククッと笑い始めた。

「ここは地獄の激戦区だぜ。

 明日をも知れぬエトランゼに、良く分からずに来てしまったみたいな顔してやがるぜ。

 本気かよ」

 こらえきれなくなって、3人は高らかに声を上げ、天を仰いで大口を開けて笑った。

 チェコやスペインのファリーゼ、パリでの出来事がガラクの口を突いて出た。

 家を出てから、|怒涛《どとう》のように自分の身に起こった理不尽とも言える運命を、他人に話したのは初めてだった。

 ずっと、だれかに聞いてもらいたい気持ちでいっぱいだった。

 もしも、戦場以外でこの話をしたら、信用してもらえないかも知れない。

 それほど現実離れした運命だった。

 突然消息を断った両親と、再会したばかりで、その場所は敵地のど真ん中で、生きているのが不思議だなどと言うと、また笑いが込み上げて肩をゆすった。

 キンバリーはガラクと同じ20歳だった。

 なのに軍人としては遥かに経験を積んだ先輩だった。

 ひとしきり話して、気を許したのか彼が言った。

「実はアル・サドンの兵士がうちの基地でうろついていても手を出すなと命令があったんだ。

 敵同士のはずなのに、おかしな話だが、外人部隊の人間は様々な顔を持っている」

「どういうこと」

「例えばお前が入ったガルーサ社から、うちにも派遣されているのさ」

「そうさ、戦争ってやつは色んな顔がある。

 影には沢山の陰謀が巡らされていることもある ───」

 白髪の小柄な老人が、後ろ手に組んで木箱の上から見下ろしていた。

 

 艦載機乗りとして、アメリカ空軍でも屈指の腕前を誇るケイ・ホワイトは、ハーティ|爺《じい》さんが持って来たスーパートムキャットの性能を確かめながら小隊の前で喋りまくっていた。

「おい、見たか。

 アフターバーナーなしで編隊に遅れず付いて行けるぞ」

 旧世代の代表格だったトムキャットを改良して、ステルス性能と新型エンジンを搭載したモデルをアメリカが秘密裏に開発していた機体は、途中で放り出されていた。

 残っていた設計図を元に、部品をかき集めて試験機を、こしらえて来たのだった。

 主翼が大きく開くと、他の機体を圧倒する迫力がある。

 この可変翼と、火器管制能力の高さが魅力で、翼の動きから「猫」の耳のようだとか、偵察能力の高さから「ピーピングトム(覗き屋)」のトムなどと言われることもある。

 低空飛行するラルフとアリーの小隊を見下ろし、今回も上空制圧をホワイトが任されていた。

「おいでなすったぜ。

 今日のエースはどちらか、競争だ、アリー」

 ヘルメットの中で軽く舌を出し、唇を湿らせると|操縦桿《そうじゅうかん》を引きながらアフターバーナーに火を入れたラルフは、山なりの軌道を描きながら敵編隊の中心めがけて飛び込んだ。

「ちょっと待て、様子がおかしいぞ」

 そこまで言ってアリーは、背筋に悪寒が走った。

 何かいつもと違う。

 ライトニングや、ハリアーのような小回りが利く機体で構成された敵編隊は、何かを狙っているような予感をさせた。

「一度やり過ごして様子を見ろ、ラルフ」

 ホワイトは叫んだ。

「細かいのが揃ったって、乗り手が素人じゃあ話にならんのさ」

 耳を貸さずにラルフは正面から突っ込んでいった。

 立て続けに発射したミサイルを、小刻みな動きで山間に誘導しながら|躱《かわ》して山服に衝突させてやり過ごす者がいた。

 そのまま機影は山の中に消えてしまった。

「ちくしょう、どこへ行きやがった」

「しまった、上だ、ラルフ」

 ふわりと大きく浮き上がったハリアーが後方上からバルカン砲の帯をホーネットに浴びせかける。

 その時、さらに上方からスーパートムキャットが躍りかかり、敵のコックピットを射貫いた。

 滑走路に向かうホーネットのエンジンから、黒い煙が長く伸びる。

 待機していた消防車が消火剤を浴びせ、コックピットからラルフを引きずり出した。

 頭部に傷を負い、ヘルメットの中に血が溜まっていた。

「へへ、ヘマやっちまったぜ。

 バルカン砲の弾が|掠《かす》めやがって、このザマだ。

 神様に、チョーシこくなと叱られたな。

 ホワイト、恩に着る」

「いいから、もう喋るな」

 ストレッチャーに括り付けられた彼は、力なく笑った。

 

 管制塔で椅子に腰かけたまま、ぼんやりとレーダーを眺めていたクリスは無線の音で我に返った。

「ジェナーです、ガラクと共に演習飛行をしたい。

 離陸許可を ───」

 少し驚いたが、若者同士、そして激しい戦闘に明け暮れる外人部隊では少ない女兵士だ。

 多くは聞かなかった。

 窓の下に、ハンガーから離れて行くライトニングⅡを認めると、飛行ルートを確認した。

 当直の管制官がやって来ても、クリスは持ち場を離れようとしなかった。

「どうか、若い世代が、このアルバラに、|碧空《あおぞら》を取り戻してくれる日が来ることを。

 血に|濡《ぬ》れた大地に眠る魂を、|慰《なぐさ》める日が来ることを」

 |呟《つぶや》く声に反応して続いた。

「司令、何か言いましたか ───」

 レーダーの前を管制官に譲ると、重くなった身体を椅子に沈めて|頬杖《ほおづえ》を突いた。

 滑走せずに空へ上がる光を追っていた目に、アフターバーナーの|眩《まばゆ》い|輝《かがや》きが映ると、遥か空の彼方を目指して消えて行った。

 そうだ、足踏みしていても兵士たちは死地へと向かって飛んで行く。

 続いてキンバリーのクフィルも飛び立った。

「男の尊厳か ───」

 いくらか頬がこけて|皺《しわ》を深くした自分の顔も、そろそろ地獄の業火に焼かれる時かもしれない。

 パサパサになった髪を掻き上げると、足を引きずるようにして自室へ引き上げて行った。

 

「ほら、ガラク、演習モードだから思いっきり発射ボタンを押してごらんよ。

 キンバリーは、すばしこいからよく狙いをつけて」

 拳銃を手にしたときのような、頬のあたりがヒリつく感覚を覚えた。

 身体の感覚が消え、「自己」という存在が一つのエネルギーに変わっていく。

 照準器の中心に機影を捉えたとき、心に渦巻く違和感が消え、この世界の何もかもが中心に集まってきたようだった。

 一発だけ発射したレーザーは、確実にキンバリーのコックピットにヒットした。

 そして操縦桿を握ると、ジェナーが言った。

「そう、その調子よ。

 あなたには才能があるみたいね。

 でも、|溺《おぼ》れちゃだめよ。

 良い戦闘機乗りは、自分を持たないものなの。

 忘れないでね」

 年老いた武器商人が一言、空に向かって呟いた。

「Good Rack ───」

 

 

この物語はフィクションです

【プロット】猫が言葉を話した日

 ある日、飼い猫が言葉を話し始めた。猫は、飼い主の知らない秘密を知っていた。

 

「ご主人様 ───」

 妻と2人暮らしの俺は、全身真っ白の猫を飼っていた。

 子どもの代わりに、膝の上に載せて一緒にテレビを見たり、散歩をしたり、食事も一緒だった。

 そんな猫のサシャが、喋った、ような気がしたのだ。

「ねえ、ご主人様、聞こえてるんでしょう」

 サシャはこちらを見つめている。

 まさか ───

「ねえ、ご主人様。

 私、見ちゃったの」

 何か、意味深なことを言った。

「なんだい」

 恐る恐る聞き返す。

「奥さんの美奈は、浮気してるわ。

 猫は誠実だけど、人間の女はだめね」

 俺は、何を言われたのか理解するのに時間がかかった。