厨房には、降りつもる雪のように、打ち粉が一面に残っていた……
「水まわしを一回にできないだろうか…… 」
何回蕎麦を打っただろうか。
10年以上毎日やってきたが、まだ一度も満足できる蕎麦は打てなかった。
森田司は38歳。2歳年下の敏子と結婚したばかりである。
蕎麦屋で打ち方を修行して、自分の店を出す準備をしている。
敏子には、
「一緒に蕎麦屋をやっていこう」
とプロポーズした。
子どもができたら、蕎麦の打ち方を教えたい。
そのためにも、満足がいく最高の蕎麦を打てる職人にならなくてはならない。
蕎麦の工程の、最も重要なポイントである水まわしで、つまづきを感じていた。
「蕎麦の出来不出来は始めの2分にかかっている」
これは直観だった。
素人にはあまり分からない違いかも知れないが、何度も水まわしを繰り返して出来上がったダマから切り分けた蕎麦はムラができ、切れやすくなる。
それに対して水まわしを一回だけしたダマでは、ムラがほとんどないはずだ。
その日の湿度、温度によって微妙に違う水加減と、指先の精緻な感覚で、絶妙な水まわしができたときの蕎麦は金色に光ると言われている。
「金色に光る蕎麦…… 」
これこそ司が目指す境地であり、人生の目標であった。
「ねえ。ちょっと散歩でもしましょうよ」
敏子が気分転換にと、出掛ける支度を始めた。
「そういえば、ここに引っ越してきたばかりで土地勘もないな…… 」
「そうよ。出前をするんだから、近所の道を知っておかないとね」
2人は連れだって外へ出た。
4月上旬、春真っ盛りで陽気が暖かい。
外には野花がたくさん咲いていた。
「桜はもうそろそろ終わりかな…… 」
桜吹雪が舞い、路肩にはたくさん花びらが積もっていた。
「こういう風景も、ロマンチックでいいわね」
ソメイヨシノは一斉に咲いて、散るときも華やかに風景を一変させる。
「ねえ。あなた。桜の花びらを見ていると、蕎麦粉みたいだと思わない? 」
「うん…… 俺もそんなことを考えていたんだ。四六時中蕎麦のことを考えているせいかな…… 」
「蕎麦粉も、桜のように華やかに積もるのよね。散った後にも華やかさを残すのは、素敵だと思うわ」
「散った後、か…… 」
司は桜並木を見上げてため息をついた。
「俺も、もういい歳になった。胸を張って誇れる仕事をして、一人前にならなくてはいけない。高校の同級生は、係長か課長になっていてもおかしくない歳だ。蕎麦屋に役職はないが、自分の店を軌道に乗せて地域で知られた蕎麦屋にすることが俺の役目であり、選んだ人生だ」
じっと自分の両手を見た。一年中水を使い、蕎麦粉を練り続ける両手は、いつも丸い形を抱いているように柔らかい曲線を描いている。
そして肌は硬く、節くれ立った分厚いグローブのようだ。
むくんでいるせいか、歳の割には皺が少ない。そして血管は濃く浮き上がっている。
この両手の表情は、長年蕎麦粉と向き合い、気が遠くなるほど水加減と練り方を探求してきた証でもある。
木は四季の変化に応じて成長速度が変わるため、年輪を刻む。
蕎麦職人の手は、温度と湿度、蕎麦粉の柔らかさと感じ取る作業を繰り返し、その痕跡を皮膚に残しているのである。
「ちょっと、お菓子でも買って花見をしようか」
いつも開店に向けて忙しくしていたので、桜の花を眺める心の余裕もなかった。
「そこのお菓子屋さんへ行きましょう」
2人は和菓子屋さんで、茶菓子とお茶を買い求めた。
「今度『きんねこ』という蕎麦屋を始めます。よろしくお願いします」
いつもDMと名刺を持ち歩いている。
人に会うとそれらを渡して、営業するのが癖になっていた。
「やっぱり仕事のことは頭を離れないな」
「これは、引っ越しの あいさつも兼ねてですよ」
笑い合って桜並木の下のベンチに腰かけた。
「桜は『美しい』と思う人がいるから桜なんだ」
司がつぶやいた。
「もしかして蕎麦の話? 」
「まあな。蕎麦屋は、蕎麦を食べたいと思う人がいる限り続く。きんねこの蕎麦を、そんな蕎麦にしたい…… 」
「食べたいと思う蕎麦…… 」
「気取った蕎麦じゃなくていい。誰もが『おいしい』と思えればいいんだ」
「簡単なようで難しいわね」
「蕎麦屋にとって、お客さんの顔を見ることも大事だと思う。誰のために作るのかを、見失ってはならない」
「そうね。お客さんを大事にするべきよね」
しばらく黙ってお菓子をつまみながら、桜を眺めていた。
「しかし、桜は はかないものだな」
しみじみと言うと、立ち上がった。
「どうしたの? 」
「猫神神社へ行ってみようか」
近くに猫を祀った神社がある。
引っ越してきたときに見かけて、変わった名前なのでよく覚えていた。
「お地蔵様がいるのね」
表通りに面したところに、お地蔵さまが3体立っていた。
「確か…… 賽の河原で子どもを救う神だったな」
「亡くなった子どもが、父母供養のための塔を作ろうとすると、鬼が壊しに来て、地蔵菩薩が救うのよね」
「そしてまた、塔を作り始める…… 」
「まるで蕎麦を打ち続ける蕎麦屋のようね」
「何でも蕎麦に結びつけてしまうな…… ははっ」
「蕎麦を壊しに来るのは、どこの鬼かしら? 」
「鬼は自分の弱い心かな…… 」
「地蔵菩薩は? 」
しばらく考え込んだ……
「きっと…… 家族だ」
「あら。素敵にまとめたわね」
「ニャーン…… 」
お地蔵様の後ろから、猫の鳴き声が聞こえる。
「こっちへおいで。お菓子をあげるわ」
敏子がどら焼きを袋から取り出した。
「ニャーン」
食べ物をもらえるとわかった猫が、お地蔵様の脇まで出てきた。
「何だか、嬉しそうな声に聞こえるわね」
御影石の上にどら焼きを1つ広げて置いた。
若い黒猫だった。
嬉しそうにどら焼きをかじり始める。
「顔が笑っているみたいだな」
「お腹空いてたのかしら」
首輪がついていないし、野良猫のようだった。
「ここにいると、動物指導センターへ送られてしまうかもしれないな…… 」
「飼ってあげたいけど、うちは飲食店だから無理ね」
パクパクと、あっという間に食べてしまった。
「ニャーン…… 」
敏子の足にまとわりついてきた。
8の字を描いて、両足に体を摺りつけながら喉を鳴らした。
ゴロゴロゴロ……
「高い音でゴロゴロいうときは、嬉しいのよね」
「へえ。音の調子で違うのか」
「昔猫を飼っていたから知ってるの。警戒しているときにも喉を鳴らすのよ。そのときは低音で」
司は猫に手を伸ばし、喉を撫でてやった。
ゴロゴロゴロ……
今度は司の足にまとわりついてきた。
「人懐っこいんだな」
「もしかしたら、猫神神社っていうくらいだから、地域の守り神様かも知れないわね」
「そうか…… じゃあ、店を繁盛させてください。猫神様」
「エサをあげてそんなことを言ったら、現金だわねぇ」
「はははっ まあ、ときどき差し入れに来るとしようかな」
「それじゃあ。またね。猫神様」
「そうだ。名前を付けたらどうだ? 」
「そうね。もしかしたら誰かが名前をつけているかもしれないけど…… 」
「よし。それじゃあなぁ…… 猫神様だから…… うーん…… 『バステト』にしよう」
「なにそれ。そのまんまね。いいわ。じゃあ。よろしくお願いします。猫神様バステト! 」
「なかなか良い響きだな。猫神様バステト! 」
「ニャーン! 」
バステトが、笑顔で返事をしたように見えた。
「ふふふ。かわいいわね」
「ははっ。なんだかやる気が出て来たよ。蕎麦を打ちたくなってきたぞ」
こうして、蕎麦屋「きんねこ」が開店した。
「ツカさんも、いよいよ一国一城の主だねぇ」
修業時代を共に過ごした、蕎麦屋の仲間たちも集まってきた。
「ああ。嬉しくもあり、厳しい荒波に飲まれる予感もあり。ってとこかな…… 」
「まあ。始めは客足が付くまで時間がかかるものだよ。俺たちも応援に来るから、頑張ってくれ」
「ありがとう。恩に着るよ」
こうして、店の厨房を守る司、そして出前と接客を担当する敏子、2人での蕎麦屋経営が始まった。
しかし、地域にDMを撒き、地道にアピールしているとは言え、客足はまだまだ少なかった。
「始めからうまくはいかないが、何もしないでいるとまずいな…… 」
飲食店は、1年で3割、2年で5割、3年で6割が閉店すると言われている。
チェーン店でもないし、個人経営の蕎麦屋は、もっと厳しいかも知れない。
飲食店を開店しても、3年続けるだけで大変なのである。
始めは物珍しさでお客さんが来たが、リピート率は低かった。
蕎麦はちょっと値段が高めだし、毎日食べるものでもない。
「私、平日にパートに出るわ」
妻が週3回パートを始めた。
このままではジリ貧である。
いくら旨い蕎麦を打っても、知名度がないうちは食べてもらうことができない。
この頃はまだSNSやインターネットサイトもなかった。
店を知ってもらうために、ハガキやチラシを地道に、隣近所へポスティングしてお客さんを待つしかなかった。
だが、いくら頑張ってもなかなか経営は上手くいかなかった。
そんなある日、
「ニャーン! 」
猫が店先にやって来た。
「ん? もしかして…… 」
「ニャーン! 」
厨房から出てくると、若い黒猫がこちらを見て鳴いていた。
「お前…… バステトか? 」
「ニャーン! 」
喜んでいるように見えた。
「何かやろうな…… よし! 蕎麦クッキーを作るから待ってろ」
「ニャーン! 」
バステトは、決して中へ入ろうとしなかった。
「もしかして、飲食店に入って迷惑がかかるかも知れないなんて、思ってるのか? 」
ゴロゴロゴロ……
喜んでいる時の、高音が聞こえた。
「はい。お待ちどうさま! 」
小皿を店先に置くと、蕎麦クッキーをたくさん積み上げた。
「ニャーン! 」
「ありがとうって言ったのかな…… 」
パリパリ…… ムシャムシャ……
「ははっ。良く食うなぁ…… 作りがいがあるよ」
ゴロゴロゴロ……
また、喉を鳴らして司の足元にまとわりついてきた。
「あれ? こんなところに蕎麦屋ができたのかぁ」
「知らなかったの? DMが何回か来てたわよ」
「へえ。手打ち蕎麦か。旨そうだなぁ…… 」
そして2人が店に入ってきた。
「いらっしゃい! 」
「きんねこ…… ね。縁起が良い名前だなぁ」
「ありがとうございます。開店したばかりですが、精一杯蕎麦を打たせていただきますよ! 」
「おお。じゃあ、山菜蕎麦」
「私はたぬき蕎麦お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください。その間に、蕎麦クッキーをどうぞ」
ちょうど作りたてがあって、出すことができた。
「蕎麦湯と一緒に食べると美味しいですよ。こちらは開店記念サービスです」
「ありがとう…… おお。美味しいなぁ。蕎麦クッキーなんて、初めて食べたよ」
厨房に入ると、さっそく蕎麦を打ち始めた。
ガラス張りにしてあるので、お客さんが蕎麦打ちの様子を見ることができるようになっている。
「もし良かったら、打つところをご覧になってみてください」
「ほほう。面白い趣向だね」
「へえ。蕎麦打ちなんて、初めて見るわ」
この日のお客さんは、2人だけだった。
帰り際に、
「私は遠山と申します。ここの蕎麦が気に入ったので、ちょくちょく来させてもらいますよ。開店したてで、大変でしょうけど、陰ながら応援してますよ」
と声をかけてくださった。
「ありがとうございます。またのお越しをお待ち申し上げております」
定型的な あいさつだが、心から感謝しての言葉だった。
「応援してくださるお客さんもいる…… 俺がするべきことは、全力で蕎麦を打つことだ。うん」
バステトと、遠山さんが勇気をくれたと思った。
ある日のこと……
「いらっしゃい! 」
厨房から顔を出すと、浅黒い顔をした母娘が入ってきた。
母親と、娘2人。顔がそっくりだった。
「いつも娘がお世話になっております…… 」
母親が深々と頭を下げた。
「えっ。はい…… 」
狐につままれたような気分になったが、話を合わせることにした。
「ねえ。おかあさん。ここの蕎麦クッキーがおいしいのよ」
「あら。そうなの! すみません。蕎麦クッキー、いただけますか? 」
こんなことを言いだすものだから、ますます不思議な気分になった。
「はい」
蕎麦粉とオリーブオイルとハチミツを混ぜてレンジでチンするだけなので簡単である。
「どうぞ。蕎麦湯と一緒に召し上がってください。これはサービスさせていただきます」
この蕎麦クッキーは、お品書きにもないメニューだ。
一度も来たことがない人は、知らないはずである。
「あのぅ…… 厚かましいお願いですが…… 」
「えっ。何でしょうか」
「蕎麦を打たせていただけないでしょうか」
「ええっ!? 」
若い女の子の、大人しそうな方がこう言うのである。
蕎麦屋を始めて、こんなことを言われるなど、まったく想定していなかった。
「あの…… えーと…… う~ん…… 」
頭が真っ白になった。
母親が口を挟んできた。
「不躾で、ごめんなさい。難しかったら良いんです.ただ、この子は特別な子なので、何か意味があって言っているのだと思います…… 」
「私は神山輝墨と言います。妹は真墨。母は墨子です。もしよろしければ、金色に輝く蕎麦をご覧に入れたいのです」
「へっ!? 金の蕎麦って…… 」
何を言っているのだ、と思った。
あまりに唐突に、自分の理想を口にされて、なぜこんなことを知っているのか。
なぜ簡単にできるようなことを言うのか。
どうしたら良いのかわからなくなった。
司は思考停止した。
「ほら。輝墨。だめよ。いきなりそんなことを言っちゃぁ! 」
母親は怒り始めた。
「お姉ちゃん! 面白そうだからやって見せてよ! 私はラーメンの方が好きだけどね! 」
「こら! 真墨! 」
「すみません。おじさん。私は、優しくしていただいたお礼がしたいのです。これから『きんねこ』を繁盛させるために必要なことなのです。息子さんの代になっても、ずっと繁盛するきっかけになるはずなのです。どうか。やらせてください」
輝墨と名乗る娘の眼は真剣そのものだった。
司は、こんな真っ直ぐな目をした人間に惹かれた……
しばらく黙り込んだ後、
「わかりました。やって見せてください。金色の蕎麦を打って見せてください」
「少しだけ訂正します。私は水加減をしますので、おじさんが水まわしをしてください。それで充分です」
ますます奇妙だ。
水まわしの肝は、水加減だが、それを知り尽くしているような言い方である。
ここまで来たら、騙されてみることにした。
「良いでしょう。では、厨房へどうぞ」
厨房に立った司は、いつものようにこね鉢と、蕎麦粉と小麦粉を4対1で用意した。
水の量は、40%台で、温度と湿度を見て決めているのだけど……
「私のやり方は、粉を触って感じ取るので、ちょっとだけ触れさせてください」
そう言うと、蕎麦粉に触れ、目を閉じた……
「…… 」
しばらく沈黙していたが、眼つきは真剣そのものである。
「わかりました。最適な量を用意しますので、水まわしをお願いします。きっかり2分でダマが出来上がるはずです」
輝墨は自信に満ちていた。
司はこね鉢にタネを入れた。
「さあ。どうぞ」
「いきます! 」
輝墨が水を注ぐと同時に、司の手がうねる様にタネをまわし始める。
「この注ぎ方です。ここがポイントですから、良く覚えてください」
諭すような言い方をして、少しずつ水を入れていく。
「何回も注ぐのか…… 量だけが問題じゃないってわけだね」
「そうです。少しずつ光り始めています」
粉がダマになり始めたころ、中心が少し光っているように見えた。
「まさか…… 」
司は夢中で水まわしをした。
この娘は本物の奇跡を起こしているのかも知れない……
手にまとわりついたタネも光っている……
「何ということだ…… 俺は10年以上研究しても到達できなかったというのに…… 」
そして蕎麦玉が出来上がった。
司は呆然とした……
「なぜだ? なぜこんなことができた? 」
究極の『金の蕎麦』が完成した……
「お待ちどうさま…… 」
呆然としてしまった司は、金の蕎麦を自分でも食べてみた。
「完璧なコシと、ほぐれ具合…… 口の中でほどけていく…… 何ということだ…… 」
3人は、食べ終わると代金を置いて立ち去ろうとした。
「あの…… あなたは何者だ? 金色に光る蕎麦は、蕎麦職人の理想の中にあるものだと思っていた。なぜできるのだ? 」
「すみません。私の役目は終わりました。次は息子さんの代でお目にかかることになります。ご恩は決して忘れません…… 」
「私はラーメンの方が好きだけどね…… 」
「ごめんなさい。お騒がせしました。このお店は必ず繁盛します。そして、代替わりするときに、また私たちは現れます…… 」
今日の出来事を、パートから帰った敏子に話してみた。
「そう…… もしかして、本物の猫神様が現れたのかしら? 」
「そうとしか思えないんだよ…… 俺は神仏をあまり信じない方だが、目を疑ったよ」
「あなたの、蕎麦にかける情熱が、形を帯びて現れたんじゃないかしら」
「う~ん…… 参ったな。蕎麦の奥深さを思い知ったとしか言いようがない」
「じゃあ、自分で金の蕎麦をもう一度再現するのね」
「もちろんだ。水まわしの考え方を変えればできることがわかった。後は水の分量を研究する」
こうして、きんねこの金色に光る蕎麦は、司によって守られていくことになる。
しばらくして、健司という長男が生まれ、蕎麦の打ち方を、物心ついた時から教え込んでいった。
その後、輝墨たちは現れなかった。
年月が経つごとに、夢の中の出来事だったように思えてきた……
健司が成長したころ、また会うのだろうか。
そんな期待を、司は時々胸に抱くのだった。
了
この物語はフィクションです