小説家になりたい

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「ふう。今日は一万字書いたぞ」

 ちょっとトイレにと、席を立つとふらついていた。

 頭が熱をもっているようで、ボーッとして思考が回らない。4,5時間ずっと集中しっぱなしだった。

 小説をこの夏から集中的に書き始めたのだが、あっという間に十二万字の大作を書き上げて文学賞に応募した。自分でもビックリしている。

 何年も前から書こうとしていたし、書き出しだけ書いたこともある。だが文が続かなくて、ほったらかしになってしまった。

「俺さ、小説を書こうかなと思ってるんだ」

「え? 小説? なんでまた……」

 妻に話すと、ハトが豆鉄砲を食らったようにキョトンとした顔をした。友人に文学博士がいるが、彼は戯曲を書いていると聞いたことがある。なんとなくその博士にも読ませたい、そんな作品を書けるようになりたいと思った。

「前から書こうと思ってたんだけどね」

「もしかして自分のことをかくの」

「いや、自分の内面を赤裸々に書くのはちょっと」

 といいながら、文学とは自分の内面がでるものだから、抵抗があるという反応はおかしいと思った。読書とは筆者との対話である。自分が出ないわけがない。

 そして

「私も書こうかな」

 と妻が言いだしたことにはビックリした。

 こうして話していると、だんだんと自分が文章を書くことが自然なことのように思えてきた。イラストを描くのは得意だが、文章を、しかも文庫本一冊書くというのは、途方もない大仕事のように思えた。

 そして書き始めると、10日で文庫本一冊分といわれる十万字を超えていて、もっと盛ることも可能だった。

 自分の中に、こんな表現欲求が眠っていたことに気付かされたのである。

「もしも、受賞して仕事の依頼が来るようになったら、こっちを本業にする」

 とまで宣言してしまった。脱サラは長年の悲願だった。だが家庭があるとなかなか難しいものだ。その道筋を、執筆活動が示してくれた。

 中学生のとき、鍼灸師に、

「キミは2つの大きな仕事を成し遂げる。手相にでている」

 と言われたことがある。その先生は、子どもがいなくて、自分を子どものように思って色々話をしてくださった。六星占術や風水にも通じていて、本をたくさん出しているようだった。

 その言葉が妙に心に残っていて、人生の節目にくると

「これが2つの仕事のうちの1つだろうか」

 と意識してしまうのだった。

 小説にこれほどまでにのめり込んで、短期間のうちに大作を5本仕上げて、エッセイに至っては数十本書き上げた。執筆を始めてから2か月しかたっていない。

 もともと朝4時に起きて読書や資格取得の勉強時間に充てていたが、その時間がすべてワープロをマシンガンのように連射する時間に変わった。休日も時間がたつのを忘れて、ほとんど文字を連射している。

 何かテーマが設定されていて、それに最適解をだしていくことには仕事上慣れていた。自分の強みはアイデアを出し続ける「思考の体力」が、無尽蔵にあることである。

 何かを創作するときには、考え付いたものをすべて込めるべきだと考えている。次回作の構想が、執筆中に閃くことが多いが、それを持ち越してはいけない。今書いているものに、すべて込めて残りカスもない状態に持っていくことがとても大事なことだと思っている。

 そして何もないカラの状態から、キレのあるアイデアが生まれるのだ。バイアスがかかっていては豊かな発想は生まれない。これは野生の勘のようなものだった。

 

 クリエイティブを仕事にする、ということは簡単ではない。まず新しいアイデアを泉のように次々に出すことが求められる。ある有名な広告マンは、朝目覚めたときに枕元にメモ帳を置いてすぐに頭に浮かんだことをメモするそうである。もちろんそれだけで出るわけではない。前日に散々悩んで200くらいアイデアを考え抜いた末に寝るのである。

 これを漬物に例えていた。例えばヌカ漬けは、ヌカ床を毎日かき混ぜて空気を混ぜる。これを怠るとおいしいヌカ漬けが漬からない。また漬けたらすぐに食べられるわけではない。丸一日くらいたつと旨味がしみこむのである。

 アイデアを考えるときには、まず始めに出せるだけ出す。頭の中にさまざまな引きだしを作っておいて、キーワードを入れ込むと次々に出てくる仕組みにしておく。そうすれば30くらいはすぐに出る。

 そこから派生するアイデアを連想ゲームのように出して、使えるアイデアを拾いだせばよい。これで納得がいかなければ寝かせるのである。

 このように何段構えにもして、アイデアはだすものである。この作業を楽しめる人は、クリエイティブな仕事には向いている。

 当然執筆中はしょっちゅうアイデアを考えて、話を展開していくのだからこの作業が延々と続くのである。ときどき妻に、

「ねえ。大丈夫? 」

 といわれて、ハッと我に返ることがある。無意識のうちに考えごとをしていて、話しかけられても気付かないのである。

 このようなとき、非言語的思考をしていることが多い。辞書を引くと「視覚的イメージ」で思考することだと書いてある。

 しかし、私の場合は視覚的イメージがない。言葉を頼りにして考えをまとめるのだが、そこに至るまでに行間を考えるのである。

 頭の中に言語空間ができていて、組み合わせる順番を度外視して言葉が散らばっている。それらの間にある空間を思考が漂っているのである。こんなときに、感覚的には水にプカプカと浮いて、目的もなくボーッとしている感じがする。

 頭の中で漂っている時間は、数時間のこともあれば、半年間断続的に続くこともある。こうして何かが形を帯びてくると、あるとき閃きが起こるのである。

 この話を誰かにしたときにに、

「産みの苦しみですか」

 といわれたが、苦しみはまったくない。心地よくもないし、ただボーッとしているだけだ。いつ漬物が食べごろになるのかもわからない。こんな感じである。