魔法のクリエイターと言われる理由、お教えします

人は知る。人は感じる。創作で。

【小説】宵越しの、あだ桜

日常の裏へ

 

 ローカル線の座席に腰かけると、背中をポカポカと陽射しが温める。

 車窓の風景は流れていくが、眠気に負けて目を閉じていた。

 慣れた電車なので、終点の手前で目を覚ます。

 ターミナル駅の人混みを必死で先を目指し、改札を出た。

 幼い頃から何度も来たはずだが、知らない駅で降りたような違和感があった。

 実際、駅前にロータリーが出現し、横たわっていた道が消えた。

 売店はないし街路樹もない。

 久しぶりに来たと言っても、変わり過ぎではないだろうか。

 もう一度駅名を確認したが間違いはなかった。

 日本は近代化を急いだため、旧市街がほとんど残っていない。

 また、木造で建築する文化も近代化を後押ししたと言える。

 だから駅前の風景を見た外国人は、

「ここはスラム街か」

 と言うのである。

 数分の間違和感を抱えたままロータリーを見つめていた。

 まあ、こんなものか。

 心で呟くとまっすぐに歩き始めた。

 駅前ロータリーを超えると、見慣れた建物が見えてきた。

 県立美術館には広大な公園に彫刻群と環水施設がある。

 時計を見ると、開館時間前だったため商店街を少し散歩することにした。

 今朝もイラストを一枚仕上げ、小説のプロットを書いた。

 フリーランスでライターとイラストレーターをしている|笹原 勇吉《ささはら ゆうきち》は、新しいアイデアの源泉を求めてやってきたのだった。

 朝食の時間帯だから、チェーン店の前にはモーニングメニューのサインが目立つ。

 秋が深まり朝の冷え込みが厳しくなった。

 早くどこかの店に入りたいが、朝食をしっかりとったため腹は空いていない。

 トレーナーの上に茶色のジャンパーを羽織り速足で歩いていると、身体がカッと熱くなる。

 少しジャンパーをずり上げ、襟元の熱気を逃がすと路地裏へ入ってみたくなった。

 路地の日陰に目が慣れてくると、植物がうねるような看板が目に入った。

 英語なら筆記体と呼ぶのであろう|流麗《りゅうれい》な文字で「催眠術体験実施中」と書いてあった。

奇妙だが初めてではない気がする

 

 隣りの飲食店には「準備中」の札が下がっていた。

 飲み屋が多いから、朝は定食の仕込みなどをしているのだろう。

 まだ静かに眠っている街に、一軒だけ異質な建物があった。

 店には窓がなく、白い壁に覆われている。

 どんな雰囲気なのか、興味本位で覗いてみたくなった。

 肺にたまった空気を吐き出し、朝の空気を吸い込む。

 肩を開いてドアノブに手をかけた。

「いらっしゃい」

 足音を聞きつけたのか、少し開けた隙間から声が聞こえる。

 ここまで来たら引き返せない。

 薄暗い店内に入口の光が白い線を長く描き出した。

「初めてですね。

 こちらへどうぞ。

 まずはご説明させてください」

 暗さに目が慣れてくると、名刺を差し出す30歳くらいの女性が目の前にいた。

 反射的に両手で受け取り、まじまじと見つめた。

 催眠術師、|辻 千廣《つじ ちひろ》とあった。

 生まれて初めて催眠術師を名乗る人を見るはずだが、何度か会っている気がした。

「あの、どこかで ───」

 つい口に出たが、辻はニッコリと営業スマイルを返し、席を勧めた。

 小さなテーブルには青い布がかけられ、わずかな光が青い反射光を下から照らす。

 五円玉とか、水晶玉とか、ルーペとか道具が置かれているわけではなくて、辻の名刺入れと今しがた貰った名刺が置かれただけのテーブル。

 周りにも、家具らしいものがない。

 例えるなら、夜入居したてのマンションにシーリングライトがないような状況である。

「暗くて見ずらいですが、どうぞ」

 裏の事務室からリーフレットを持ってきたらしく、名刺の隣に滑らせてきた。

「催眠術に、かかりにくい方もいらっしゃいますから、無理だと思ったらお断りしています。

 お客さんは大丈夫だと思いますよ」

 催眠術へのかかりやすさ、と言われると何が大丈夫なのか気になってくる。

 クリエイターだから、物事の小さな変化を見逃さない観察力と想像力があるという意味だろうか。

 感覚人間と理論派人間、という構図ではない気がする。

 美術館へ行こうとするのは、話題作りではなく自己啓発的な意味が強い。

 こういう人間は催眠術にかかりやすい、と言われれば腑に落ちる。

「さっそくですが、3時間限りの施術をサービスさせていただいてよろしいでしょうか」

「えっ」

 唐突に、意識の中へ言葉が滑り込んできた。

 視覚をかなり制限されているせいか、言葉がいつもの何倍もズシリと響く気がした。

 まごついていると、

「無料ですから、ちょっと体験してください。

 絶対にご満足いただけますよ」

 向かい側から白い手が伸びてくる。

 ドキリとして少しのけぞった。

「ごめんなさい。

 ちょっとこれをお見せしようと思って」

 リーフレットを開くと、県立美術館の招待券が入っていた。

「美術館へ行くことを、なぜ知っているのですか」

 声に少し怯えの色が差した。

 もしかして超能力だろうか。

 辻は、また営業スマイルをして見せた。

催眠術の本質

 

「始めに、準備体操のようなことをします」

「はあ」

 辻の両手がテーブルの中央に伸びてきた。

「ここに、黄色いレモンがあります。

 みずみずしい光沢があって、表面にはわずかな|凸凹《でこぼこ》が見えます」

 両手の平の間に黄色い物体をイメージした。

「果物ナイフを持ってください。

 レモンの真ん中を輪切りにしていきます。

 するとジューシーな果汁が飛び出して、透き通った果肉が現れました。

 酸っぱい刺激のある香りが鼻を突いて、口の中にも広がってきました」

 右手にナイフを持ったイメージをして、レモンを真っ二つにした。

「一枚を手に取って、鼻先で香りを確かめます。

 そして一気に口の中に入れ、噛むと果汁が口の中に広がります」

 話を聞いてイメージしただけで、少し|唾《つば》が出てくる。

 表情を|窺《うかが》っていた辻は、満足そうに頷いた。

「これは催眠術の一種です。

 施術すると、眠っていた能力を発揮してさまざまな効果が現れます」

 言いながら辻が席を立ち背後に回った。

「これから美術館に行きます。

 あなたは今、非常に感覚が鋭くなっています。

 究極の鑑賞体験があなたを待っています。

 もし、催眠術を解きたい、と思ったら手を叩いてください。

 スイッチが切れて元に戻ります」

 肩に触れた手から、ほんのりと体温が伝わてきた。

 目を閉じて呼吸を深くしていくと、何かが奥深いところに落ちていく感覚があった。

 パンッ、と辻が手を叩くと、ハッとして目を見開いた。

 覗き込んで何かを確かめると、

「これで施術が完了しました。

 お気に召しましたら、本格的なプランをご紹介しますよ」

 またニッコリとスマイルを浮かべ、出口へと促された。

 腕時計を確認すると、企画展の開館時間を過ぎていたので、早速美術館へと向かった。

何かがおかしい

 

 入口のカウンターにいた女性に、招待券を渡すと日付が入ったスタンプを押した。

「今日一日は何度でも入館できます。

 お荷物がありましたら、コインロッカーをご利用ください」

 朝なので客は少ない。

 スロープを下っていくと展示室の自動ドアが開いた。

 目の前の絵には、バルビゾン派の森の中の湖に浮かぶボートが描かれていた。

 うねるような植物文様の額にきちんと収まっていなければ、写真と見間違えるほどのリアリティである。

 顔にそよ風が当たり、チャプチャプと水が岸を打つ規則的な音が聞こえてきた。

 キュウリのような青臭い匂いと、土の臭いが混ざって鼻孔を突いた。

 足元の落葉をガサガサと踏みながら水辺まで来た。

 視覚だけでなく、聴覚、嗅覚など五感を駆使すると深く情景を描くことができる。

 表現でも同様である。

 湖にはどんな魚がいるだろうか。

 薄く目を開けていると、足元が揺れ始めた。

「おっと」

 後ろに手をつくと、木製のボートの感触があった。

 段々と森が開けて、湖の中心に向かって流れていくようだった。

 中にあったオールを持ち上げ、オールクラッチにはめ込んだ。

 |舳先《へさき》を背にしてオールを引くと、ザブンと大きな音を立てて後ろへ進んだ。

 ボートに慣れていないので、必死で重心を保ちながら力を込める。

 広い湖は、どこに通じているのか知りたくなった。

 夢中になって漕いでいると大きな遊覧船とシラサギが横切った。

 波に大きく揺られ、転覆するのではないかとヒヤリとした。

 手足が疲れたのでボートにゴロリと横になって空を見上げる。

 晴れ渡った空が高くて、吸い込まれそうな色彩が広がっていた。

 そういえば、催眠術をかけられて美術館に来たのだと思い出す。

 このままでは湖から抜け出せないような気がして、不安が足元から身体を冷やしていく。

「そうだ」

 両手をオールから離し、5本の指をピッタリつけて勢いよく合わせた。

 パンッ、と音がして展示室の光景が戻ってきた。

 先ほど乗っていたボートは、絵の中で波に揺られている。

 木々はざわめき、水の匂いがした。

気になる絵

 

 絵の中に入った。

 催眠術によって覚醒した感覚が、幻を見せたのだろうか。

 それにしても、奇妙な感覚だった。

 音、肌の感覚、匂い。

 身体全体で情景を感じていた。

 今度は気になる作品を探して、入ってみよう。

 企画展のリーフレットにあった、牧歌的な油彩画だ。

 次の展示室にその作品はあった。

 カミーユピサロ作「エラニーの牛を追う娘」である。

 印象派の荒いタッチで、暖かい空気を感じさせる名画だ。

 だが今度は何も起こらない。

 3時間効果が持続すると言っていたから、まだ切れていないはずである。

 目を凝らして隅々まで眺めても変化はなかった。

 仕切りに足が触れ、ぎりぎりまで近づいていく。

 すると声がした。

「こちらへどうぞ。

 お客さん」

 思わず振り返ったが、誰もいない。

 向き直ると、夕日が山の向こうへ落ちていくところだった。

 辺りが茜に染まり、野原の草がザワザワと風に揺れる。

「催眠術は成功ですね。

 これほど短時間にここまでリアルなイメージを描く方は珍しいのですよ」

 辻が伸びをして、深呼吸した。

 絵の中に入るのは、究極の体験です。

 主題になっている、娘の方を見た。

 棒切れを持って、山の方を眺めているようだ。

 きれいな小川のせせらぎの音も聞こえてきた。

「あなたは、毎日牛を追うのですか」

 聞こえているのか、いないのか、娘は少しも動かずに遠くに視線をやっている。

「学校へは行かないのですか」

 辻が少し吹き出したようだ。

「お客さん、フランスとは言え田舎の酪農をする家の娘は学校など行けない時代ですよ。

 素晴らしい絵画は、日常生活では体験できない感覚をもたらすのです」

残す者

 

「なぜ、あなたはここまで不器用に、実直に自然を描き、探究するのか ───

 鑑賞者にとって、少しも楽しいものはない」

 はっとした笹原は辻の横顔を見た。

 太陽が沈む方角を、じっと見つめたまま続けた。

「厳しさに満ちた絵画。

 真実と正義に対する常軌を逸した執着。

 激しい意志。

 あなたは愚かなほど真っ直ぐだ」

 牛飼いの娘は、ゆっくりと背を向け歩きだした。

 一言も喋らずに牛たちを家路へと|誘《いざな》う。

 小川のせせらぎは、少しも変わらず柔らかく冷たい音をたてた。

「だが私はあなたのような画家に魅かれる」

 |静謐《せいひつ》な風景に、作者の厳格さが満ちている。

 徹底的に自分を抹殺して鑑賞者に徹する。

自然主義ですか」

 思わず口にした。

「人生の喜びとか、成功とか、私たちは意識し過ぎているのかも知れません」

「あるがままに写し、留めた世界 ───」

 時代の転換期に、旧体制のサロンと新体制の印象派の狭間で残した作品には、凄みがある。

 社会が成熟した現代では、どんな仕事をしたらいいのだろう。

「後世に残る作品を作りたいと、思ってはいけないのでしょうか」

 視線を合わせないまま、辻は黙っていた。

「フランスのエラニーは緯度が高いから、日没時間はかなり遅いのです。

 牛飼いの娘は、日没と共に床に入り日の出とともに起きてまた世話を始めます。

 代わりはいませんから、ずっとこの生活が続くのです。

 現代に生きる私たちからすれば、羨ましい部分もありますが一生続けられるでしょうか」

「無理でしょうね。

 根本的に人生観が違います」

 断言した笹原に辻が向き直った。

「お客さんは、面白い方なのでもう一つサービスをしましょう」

 右手を突き上げ、パチンと鳴らした。

 瞬きをする間に、オレンジがかった風景がピンク色に変わる ───

 

 ヒラヒラとピンク色の|飛沫《しぶき》が舞う。

 一色に彩られた視界が、遠近感を奪う。

「桜 ───」

 でも、ソメイヨシノではない。

 赤みが強くてしっかりとした花。

「地球上に、何種類あるかご存じですか」

 ピンクの花びらが、形を帯びずに落ちていく。

 花の形も|朧《おぼろ》げで、はっきりしない。

「10種類くらいでしょうか」

「交雑種がたくさんありますから、諸説あります。

 数百種類はあるようですよ」

「桜と言えば、ソメイヨシノだと思ってました」

「近世まではヤマザクラが主流です。

 これは、そちらを描いたようです」

 落ち続ける花弁は、留まるところを知らず地面に積もっていく。

「桜は、散り際も美しい」

 ゆっくりと歩いて行くと、池が見えてきた。

「|花筏《はないかだ》 ───」

 日本を象徴する花。

 人生の節目に咲く花。

 成功の象徴。

 なぜ日本人は桜にこだわるのだろうか。

「桜は、いいものですね。

 催眠術の力で、時々来てぼんやりと過ごすと明日からまた頑張れます。

 そろそろ3時間経ちますから、施術を解きましょう」

 パンッと両手を叩いた。

 薄暗い部屋。

 椅子に座って、うとうとしていたような感覚。

 気持ちはスッキリと晴れやかだった。

「ここは ───」

 ピンクの粒がテーブルの上を柔らかく包んでいる。

 殺風景で窓がない部屋。

 テーブルの隅に辻の名刺が置かれていた。

「では、本日はここまでとします。

 催眠術は、精神的に消耗しますから後で疲れがきます。

 今夜はゆっくりお休みになれますよ」

 名刺をポケットにしまうと、席を立った。

あだ桜

 

 自宅へ帰ると、陽はとっぷりと暮れていた。

 軽く夕飯を済ませると、自室に|籠《こも》った。

 タブレットに向かい、ペンをとった。

「何を描くか ───」

 脳裏にピンクの飛沫が鮮明に浮かぶ。

 太陽と風の香り。

 自分なりに桜の構図を探ってみた。

 画面いっぱいに描いた大木は、どこまでも、どこまでも広がっていき、まるでゆらめいているかのようである。

 舞い散る花弁は、柔らかく、優しく辺りを包む。

 こんな世界だった。

 ディティールまで、できるだけ詳細に表現してみた。

 桜は不思議である。

 たくさんの画家が、シンプルな構図で挑戦した。

 題材そのものが、すでに美的だから表現の入る余地が少ない。

 ふと、桜吹雪の奥に人影を見た気がした。

 そんなはずはない。

 人など描いていないのだから。

 だが今日の体験を思い出した。

「辻さん」

 ボソリと呟くが、|瞬《まばた》きをする間に消えていた。

 窓の外に目をやると、漆黒の闇が支配している。

 星も、月もなく街の明かりがほのかに下方を照らす。

 街の|灯《あかり》がロマンチックなのは、灯の数だけ人の営みがあるからだ。

 桜の花びらのように舞い、地の一部になっていく。

 |儚《はかな》く、力強く、美しい生命。

 もはや立体感も奥行きも|曖昧《あいまい》な桜は、時空を超えて|凛《りん》と立つ。

 ペンを置くと、急にまぶたが重くなった。

 催眠術は、精神に負荷をかけるらしい。

 人間の肉体は儚くても、土に帰っても、作品は残る。

 そう思っていた。

 自分が今までに書いた小説も、イラストも、桜の花弁のようなものではないか。

 重い体を起こし、笹原は床に就く準備をした。

本当の自由

 

 昨日の体験が頭から離れずに、夢を見ている気分で目覚めた。

 朝の陽射しが視野を明るくし、ぼんやりとした心を引きしめる。

 絵画の中で対話し、身体全体で味わった体験は十年分の人生経験に相当するような気がした。

 五感で感じるだけで、分かることが多い。

 どうしても確かめたいことがあって、急いで支度すると再び駅を目指した。

 昨日と同じ看板。

 窓のない部屋。

 大通りの喧騒から離れたひっそりとした路地に、変わらない光景があった。

「いらっしゃい」

「すみません。

 催眠術に、どうもハマってしまったようです」

「結構じゃありませんか。

 昨日と同じ体験をご希望ですか」

 視線を落とし、少し考え込んだ。

 その前に、聞くべきことがある。

「昨日帰宅してから、桜の絵を描きました。

 その中に人影を見た気がするのですが」

 また辻が営業スマイルをして見せた。

「どなたか入っていらしたのでしょうね」

 他の誰かが絵を通じて入ってくるのだろうか。

 深くは追及しなかった。

「もう一つ質問があります。

 他の効果もあるのでしょうか」

「催眠術は、ご本人の内なる精神世界の窓を開き、未知の力を引き出すのです。

 ですから私自身にも予想できない部分があります。

 推測ですが、お客さんが持つ鋭い感性が他人を呼び寄せるのだと思います。

 絵画に人影が入ってきたのは、そういう意味でしょう」

「他人の共感を呼ぶ、という解釈でいいでしょうか」

「もっと深い部分でシンクロしていると言った方が適切です」

 迷いがなく、人間の振る舞いを知り尽くしたような言い方だった。

 絵画に対する理解力にしても、素人とは思えないレベルである。

「何者ですか」

 口を突いてでていた。

「ただの催眠術師ですよ。

 だから、今度はお客さんに何が起こるかワクワクしています。

 一つだけいいでしょうか」

「はい」

 改まったようにして、考え込んだ。

「昨日は一夜限りの桜をお見せしました。

 同じ場所には二度と行けません。

 だからこそ、今日を楽しめるのです」

 背後に回った手の温もりが、何かを身体の中に落とし込んだ。

 

 

この物語はフィクションです