魔法のクリエイターと言われる理由、お教えします

人は知る。人は感じる。創作で。

【小説】みぎわの群雲(むらくも)

碧い風景

 

 沖の入道雲は、生き物のように上へ上へと伸びていく。

 人間のスケールを遥かに超えた造形である。

 夏の午後、よくある空模様。

 モクモクと内側から張り出してくる白い綿が、やわらかいフォルムを見せる。

 空は抜けるような深さである。

 身体を反らせて上を見ていると、濃紺の宇宙に吸い込まれそうだ。

 青空は薄い色から始まって、きれいなグラデーションを作り出す。

 水平線を境に層濃くなり、近づくにつれ波の密度が荒くなる。

 初夏の海辺は一面の青いキャンバスである。

 白い雲と、淡い生成りの砂が爽やかにコントラストをつけている。

 水平線の彼方から、絶え間なく波がやってくる。

 波頭が砕ける瞬間を探して視線を落とす。

 一体波はどこで生まれているのだろうか。

 エメラルドブルーの水辺に顔を覗かせた岩を、波が洗いつづけている。

 永遠に続くであろう、自然の営みに比べれば人生など短いものだった。

「こうちゃん、こっちへおいでよ」

 波打ち際に足跡をつけながら、|優織《ゆうり》が振り向いた。

 |光希《こうき》はサンダルを脱ぎ捨て、熱い砂をつま先立ちで駆け抜ける。

「あちちちっ」

 足の裏を焼く粉が、まとわりついてくる。

 腕を大振りにして、濡れた砂へジャンプした。

「うわっ」

 危うく尻もちをつきそうになった。

 大股を開いて腕を振り回し、踏みとどまった。

 優織はとっさに伸ばした手で、光希を掴んだ。

「あははは」

 2人は笑い合い、見つめ合う。

 優織の手は思いのほか|華奢《きゃしゃ》だった。

 弾みで触れた身体の感触が柔らかい。

 息遣いが聞こえるほど近づいて、手を取った。

「引っ越しするんだってね」

「うん」

 優織は父親を海の事故で亡くしていた。

 そして母親の仕事の都合でフランスに行く準備をしている。

 何かを思い出したように、沖に目を移した。

「海は、ずっと変わらないね」

 遠くを見つめる横顔は、この世のものとは思えないほど美しかった。

 ずっと|傍《をば》にいてほしい。

 言ったところで、お互いに辛くなるだけだ。

「そうかな。

 小さいころに見た海は、もっと近くにあった気がするな ───」

 しみじみとして、水平線を眼でなぞった。

 視線を戻すと、優織と目が合う。

「海は、世界中に続いているよ。

 地球の裏側までも」

 眼に涙を浮かべた一瞬を、光希は見逃さなかった。

「いや、海は遠くなったよ。

 その代わり、空が近づいてきている」

「何を、考えているの」

「宇宙だよ。

 |明《あかり》も、|寛英《かんえい》も言っていたよ。

 これからは宇宙の時代だって。

 ちっぽけな島で育っても、空を見ている限り僕たちは自由だ」

「こうちゃんも、出て行くつもりなの」

「独り立ちしたらね。

 みんな出て行くんじゃないかな。

 だから、寂しがることはないさ」

 何かを言おうと口を動かしたが、言葉を飲み込んだ。

 海の香りも、砂の感触も一生忘れまいとしばらく|佇《たたず》んでいた。

半夏生の頃

 

 離島の暮らしは、とても居心地がよかった。

 隣近所みんなが家族だった。

 ゴミ出しをしていると、通りすがりの人が車やバイクで運んでくれた。

 漁師のおじさんは、魚をみんなに配って歩いた。

 何でも明け透けだから、楽しみを分かち合うことができた。

 光希は成長するにつれ、そんな暮らしに疑問を膨らませている。

 インターネットで都会の暮らしを調べ、憧れるようになっていた。

 そして、ずっと傍にいた優織が突然いなくなることは受け入れがたい。

「こうちゃん、身体には気をつけてね」

 別れ際に言った言葉が心に沁み込んだ。

「なんだよ。

 親みたいな子と言うなよ」

 口を尖らせる光希を見つめ、覗き込むようにつま先立ちをする。

 心の奥底を見透かそうとするかのように。

「それじゃあ、明日の準備があるから」

 右手をあげた優織は、帰って行った。

 ローズピンクのワンピースの末広がりのラインを残して。

 

 翌日、朝早く大きな船が島にやってきた。

 沖に止まった白い船体から、小さなボートが下ろされた。

 澄み切ったサンゴが見える桟橋に、白いボートがつけられた。

 青と白の横縞模様のシャツに白のパンツを身につけた優織は、海と空に吸い込まれるような美しさだった。

 母親に続いて、見送りの島民に一例をした後ボートに乗り込んだ。

 振り向い顔には、笑顔が|溢《あふ》れていた。

「元気でな」

 みんな口々に別れを惜しみ、大きく手を振る。

 涙をこらえながら光希は手を振り続けた。

 一瞬でも彼女を見逃すまいと、波に揺られるボートを追った。

 小さな小さな木の葉のように波に洗われ、穏やかな海に吸い込まれていく。

 波間に見え隠れするようになったころ、船に着いたのがわかった。

街のががんぼ

 

 月日は流れた。

 東京の大学で、データサイエンスを学んだ光希は宇宙観測に夢中だった。

 情報通信業界で就職活動をして、大手企業の新しい衛星通信の研究と宇宙開発に関わる研究を続けることになった。

 生き急ぐように勉強を続け、毎日在宅でデータ分析をする日々。

 人工衛星のエックス線観測機や赤外線観測機のデータを睨みつけ、世界中の研究者とやり取りをする。

 肉眼での観測には限界がある。

 だが、赤外線とエックス線を分析することによって宇宙開発が飛躍的に進むと期待されている。

 いわば目に見えない世界を、感じ取って数値化しているのである。

 そして新しい素粒子の研究も進み、予想だにしなかった成果が上がっている。

 世の中で最も先端にいて、役立つ仕事にやりがいを感じて始めた研究だった。

 パソコン画面に流れていく数字を追い、独自のプログラムで抽出した変化を見て唸る。

 もし新しい惑星を見つけたら、自分の名前をつけられるかも知れない。

 自分の星を、10000キロ離れた土地で優織が認める日が来るのではないだろうか。

 想像を膨らませた先に、いつも彼女の影がよぎった。

「ふう」

 大きなため息をついて、席を立った。

 彼女の面影が脳裏に焼き付いて離れない。

 お互いのために忘れようなどと考えたことを後悔した。

 会えなくなると、会いたくなる。

 もがき苦しみながら、気持ちを鎮めようと外の風に当たった。

 34階建てのタワーマンションの高層階にある部屋からは、地図のような街が広がる。

 遠くは灰色に霞んでいた。

 見上げた空は、今にも落ちてきそうなほど重苦しい。

 眼を閉じて濡れ縁に腰かけた。

 すでに陽は暮れかけていた。

 落ち着きを取り戻すと、室内に戻りパソコンに向かう。

 相変わらず無味乾燥な数字が落ちてくる。

 時々数字が跳ね上がると、SNSに報告を打つ。

 今日は、これといった成果もなく終わった。

 日報を書き、一息つくともう一度インターネットを開く。

 一日の終わりに、やることがある。

 人工衛星の観測データから、フランスを探索するのである。

 一人の人間を探し出すことなど到底不可能だったが、やらない日はなかった。

 乾ききった肌に、思い出の潤いが沁みわたる。

「今年のお盆は、島へ帰ろうかな ───」

 ベッドに横たわると、静寂が辺りを包んでいた。

 飾り気のない真っ白な壁に目を移すと、一匹の ががんぼ がとまっていた。

一万キロ彼方の幻

 

 石造りの建物が立ち並ぶ、芸術の都パリには美しい文化があった。

 ライターをしている母親の都合で来てからというもの、優織もクリエイティブな仕事に興味を持ち始めた。

 美術や音楽に触れ、母と同じ執筆活動をするようになっていく。

 英語とフランス語を必死に勉強しながら、フランスでの生活と芸術を題材に情報発信していた。

 忙しい生活をしていないと、故郷のみんなの顔が浮かんできてしまう。

 帰りたい気持ちを噛みしめ、生き急ぐように勉強し続けた。

「こうちゃんは、今頃どうしているかな ───」

 島を離れた日から、年月が経つごとに思いは深くなっていく。

 狂おしい気持ちを抱えて、アパルトマンのベランダに出た。

「空を見れば、世界中につながっている」

 光希の言葉が心の支えになっていた。

 今日はISSがよく見える。

 国際宇宙ステーションには、エックス線観測機などさまざまな機材が取り付けられている。

 日本も宇宙開発へ本格的に乗り出した。

 月面に日本人が立つ日も近いらしい。

 そんなことに思いを巡らすと、光希とつながっていると思えた。

 優しい星の光に吸い込まれそうになる。

 今日も夏の大三角形を探し、辿りながら呟いた。

「出逢いが本物だったら、また会えるはず ───」

 

 リビングに降りると、母が帰って来たところだった。

 洗面所から顔を出し、帰りの挨拶もそこそこに、

「今年のお盆は、日本に帰るよ」

 にっこりと笑って言た。

「えっ」

 突然の帰郷に、呆然と立ちつくしていた。

 夕飯の支度をしながら、日本のことを思い出していた。

 優織の顔を|窺《うかが》っていた母は、

「島は、変わってないかなあ」

 しみじみと言った。

 日本の政治、宇宙開発などをぽつりぽつりと話ながら、夕飯を済ませる。

 無性に星空が恋しくなった。

 もう一度ベランダに出た。

 天の川が鮮やかに煌めく。

 織姫と彦星はそれぞれの仕事をきちんとする代わりに、1年に1度の逢瀬を許される。

 優織はこと座のベガ。

 光希がわし座のアルタイル。

 万星の明は、二星の光に如かず。

 空に描いた絵が、美しく瞬いていた。

牛を牽きて現る

 

 エールフランスは、日本列島を視野に捉えた。

 窓から見える雲の間に東京のビル群を探す。

 懐かしい房総半島の形を認めると、胸が熱くなった。

「本当に、日本に帰って来たね」

 船に乗り込み、島を目指す。

 船体が揺りかごのように身体を揺り動かす。

 懐かしい感触だった。

 出航すると、デッキに上がって海原を見渡した。

 |鰹《かつお》の群れが銀の河のように通り過ぎた。

 遠くにはカモメが魚を狙って白い波しぶきを立てている。

「ああ、地球は広いんだなあ」

 優織は胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。

 あと数時間で懐かしいあの場所に着く。

 近づくごとに、不安が頭をもたげた。

「こうちゃんは、いないかも」

 何を楽しみに帰るのだろう。

 記念写真を眺めて胸を熱くしていた方が、幸せなのかも知れない。

 自分が何を期待しているのか、分からなくなってきた。

「何だか、顔色が悪いようだけど、久しぶりで酔ったかな」

 母が心配して覗き込んだ。

「ううん。

 違うの」

 それっきり黙り込んでしまった。

 白い小さなボートに乗り込むと、島に近づいて行った。

 小高い丘で、小さいころ走り回ったっけ。

 漁船に乗せてもらって、手伝いをしたこともあった。

 近所のおじさん、おばさんたちはみんな親切だった。

 ハッキリと目でとらえるようになると、懐かしさは消えていった。

 あの日送り出された桟橋で、手を振っている人たちがいた。

「おうい」

 身を乗り出して優織も手を振る。

 目と鼻の先まで近づいてきて、光希の姿がないことを確かめるとため息を一つ吐き出した。

 宿に落ち着いてから、疲れた身体を畳に広げた。

 大の字に寝転ぶと、眠気が襲ってきた。

「そうだ、砂浜へ行こう」

 跳ね起きると裸足のままサンダルを突っかけて浜に出た。

 熱い砂。

 エメラルドグリーンの海。

 そして入道雲

 まるであの日を再現したかのようだった。

 胸が熱くなって、サンダルを脱ぐと波打ち際に入った。

「冷たい」

 海の感触は少しも変わらなかった。

 身を縮めると、被っていた帽子を海に落としてしまった。

「ほら、気をつけないと流されるぞ」

 太陽を背に、帽子を拾った男が近づいてきた。

棚機津女(たなばたつめ)

 

 薄生成り色の砂浜は、眩しい光に輝いている。

 沖の水平線からは、絶え間なくさざ波が押し寄せ足を洗った。

 深く深く、吸い込まれそうな空の色。

 まぶしい風景を背に、黑いシルエットが大きくなった。

「ゆうちゃん」

 懐かしい声。

 帽子を頭に乗せた手は、大きくて力強い。

 満面の笑顔で光希が立っていた。

「こうちゃん ───」

 吸い寄せられるように胸に飛び込んだ優織を、抱きしめた。

 ずっと傍にいたような暖かさ。

 懐かしい風景の中で、ときめきを感じなかった心に潤いをもたらしていく。

 この人が故郷そのものだった。

 まっすぐに見つめ合った。。

「ずっと|傍《そば》にいてほしい」

 光希がつぶやいた。

「うん」

 両手を絡めて顔を近づけると、ごくあっさりと唇を重ねた。

 狂おしいほど求めた面影は、形を帯びて手の中に確かな感触をもたらした。

「うちにおいでよ。

 一緒に星を見よう」

 海の色が、碧さを深め空がまぶしさを増した。

 沖の水平線は、先ほどよりずっと近くに広がっていた。

 生気を取り戻した優織の頬には、一筋の涙が落ちていた。

綺羅星の先に

 

 母親と主に光希の家を訪れると、近所の人たちが集まっていた。

 夕飯を大勢で食べると、島の生活を取り戻したと思えたのだった.

 懐かしい思い出話に花を咲かせ、笑いかけてくる島の人たち。

 パリにも東京にもない安らぎがあった。

 乾ききった砂が水を吸い込むように、心が満たされていく。

「ずっと、こうしていたいなあ」

 光希と一緒に抜け出して丘に登りながらつぶやいた。

 つないだ手には、確かな温もりがあった。

 しっかりと、そして柔らかく握られていた。

 人間の指はこんなにも細く繊細に動くのか。

 優しくて強くて、|儚《はかな》い星の一つのように存在していた。

 いつかは消えていく命が、精一杯輝きを放つ瞬間だった。

「ほら、あれが超新星だよ」

 指で指したところが、ピンクに輝いていた。

 島を出てから大学へ行って、宇宙開発に関わっていること。

 人間のライフスタイルが大きく変わろうとしていること。

 大勢の人を乗せて宇宙へ行く宇宙船の開発が進んでいること。

 惑星探査、宇宙の彼方にあるたくさんの謎に思いを致した。

 そして、天の川と夏の大三角形は変わらず鮮やかな絵を描いていた。

 南の空にゆっくりと動く光があった。

ISSを見ると、こうちゃんと|繋《つな》がっている気がしたの」

 パリの空で毎日探していた光は、故郷でも変わらない明るさだった。

東京の空

 

 リビングからまな板を規則正しく叩く音が聞こえる。

 朝食はたまごかけご飯とサラダボウル、そして果物。

 毎日決まった食事を規則正しく取ることで、体調も整えられる。

 キッチンから、優織の声がする。

「今日は通訳の仕事を入れたから、少し遅くなるよ」

「そろそろ、産休にした方がいい。

 僕の稼ぎだけで充分やっていけるから」

「うん」

 じっとしていられない性格なので、妻もよく働く。

 母親と2人きりの海外生活が、そうさせたのだろうか。

 光希が元々棲んでいたタワーマンションは、夫婦親子でも住める広さがあった。

 コバエやら蚊トンボが階段を上って入ってくるところも変わらない。

 パソコンを開いて、SNSで始業報告をする。

 今日も赤外線観測器のデータ収集。

 同時に雑誌に載せる記事を書く。

 調べ物が膨大になって、画面が付箋で埋めつくされた。

 研究者の友人から電話を取る。

 今週ラジオで流す原稿の打ち合わせである。

「じゃあ、今日で最後にするから。

 いってきます」

 玄関から妻の声がした。

 NASAJAXA理化学研究所にも情報提供し、大学で宇宙開発に関するコマも持っている。

 フリーで仕事をしていると忙しい。

 だが、好きな宇宙開発の研究とプログラミングで食っていけるのだから、いくらでも頑張れた。

 妻も宇宙に関する記事を書いている。

 離れていたときも、宇宙でつながっていたようだった。

 地球上では遠く離れていても、宇宙の一部だと思えばすぐ隣の陸地である。

 心はいつも空の上にある。

 島にいたときも同じだった。

 子どものころから同じ夢を持ち、今も邁進している。

 気がかりと言えば、そろそろ体力の衰えが目立ってきた両親と、優織の母親のことである。

「いずれは、東京に来てもらおうかな ───」

 「幸せ」は、身近な人と共有するから確かなものになる。

 帰ってきたら優織にも話してみよう。

 都会暮らしも、人数が増えれば楽しくなる。

 外のビル群が、今は暖かく人の営みを感じさせた。

 キーボードを叩く音が高く響く午後だった。

 

 

この物語はフィクションです