魔法のクリエイターと言われる理由、お教えします

人は知る。人は感じる。創作で。

【小説】盆の敷延(ふえん)

白雲の閻魔庁

 

 絹の真綿のように滑らかな雲の上。

 足元に|霞《かすみ》がかった場所がある。

 あの世とか、浄土とか、人間が思い描いた世界に近いが、閻魔庁に初めて入ったときには驚いてまごついてしまった。

 とにかく、古今東西すべての死者が集まってくるのだ。

 四角く無駄のない建物は8階建てくらいだろうか。

 敷地面積がやたらと広い。

 入口を目指して長蛇の列ができていて、建物をぐるりと囲んでいた。

 昨年末に不慮の事故でやってきた|久之《ひさゆき》は、現世に帰りたいと毎日思い続け、閻魔庁の周りをうろついていた。

 「鬼籍課」という窓口が1階にずらりと並んでいる。

 案内役の鬼が、列の人たちに声をかけている。

 屋外に設置したスピーカーからは、抑揚のない女性の声が響いている。

「こちらは、閻魔庁です。

 この度はご愁傷さまでした。

 亡くなったご本人の鬼籍への登録が必要です。

 命日の翌日から起算して7日以内に鬼籍課へお越しください」

 死人はご飯を食べなくてもいいし、睡眠を取らなくても元気である。

 だから、カレンダーも時計も用がなくなった。

 考えてみれば、生前はいつも時計をチラチラ見て、今日が何年何月何日で何曜日か知らないといけなかった。

 時間の流れにとても敏感だった。

 仕事中は1分でも無駄にすると|苛々《いらいら》したし、少しでも早く仕事をこなすために神経を使った。

 時間の継ぎ目が|曖昧《あいまい》になったので、手持無沙汰だった。

 空き時間にいつもいじっていたスマホもない。

 自転車も車もないから、歩いて移動するしかない。

 長い休みを喜べるのは、することがあるからである。

 空はどこまでも深く澄んでいて、雲海は霞んで消えていく。

 雲の上だから天気の変化もなく、気温も過ごしやすい。

 もし生きていたら快適な環境なのだ。

 かなり長い時間、ぼんやりと過ごしていたら、閻魔庁が混み合ってきていた。

精霊会(しょうりょうえ)

 

 閻魔庁に近づいていくと、いつもと違うアナウンスが流れていた。

「|精霊会《しりょうりょうえ》の対象の皆様は、5階特設窓口までお越しください」

 もしかして、初盆に現世へ戻る手続きだろうか。

 案内窓口へ行ってみることにした。

 1階の奥に「i」マークのデスクがある。

 みんな迷わずに手続きしているようだが、久之はまごついてばかりだった。

 全面ガラス張りの近代的なビルは、奥まで陽が届いて明るかった。

 床は御影石のように煌めくダークグレイ。

 磨き上げられてツルツルしていた。

 壁面は白壁で、シンプルな内装である。

 観葉植物などもなく、広い空間を鬼たちが忙しそうに行き来する。

 相変わらず長い行列を作って、さまざまな民族の人間がきちんと待っていた。

「すみません。

 今年僕は、初盆なのですが家族に会えるのでしょうか」

 受け付けの鬼は、口から長い牙を覗かせている。

 鋭い眼で辺りを見渡していた。

 声をかけると視線を合わせて、ニコリと笑った。

「初盆ですか。

 この度はご愁傷さまでした。

 さぞかしご家族に会いたいことでしょう」

 カタカタとキーボードを打ち、鬼籍を検索し始めた。

 氏名と生年月日、没年月日から分かるようだ。

「ふむ。

 なるほど。

 不慮の事故ですか ───」

 顎をさすりながら、しきりに唸った。

「難しい案件ですね。

 鬼籍には記載がありませんが、初盆の扱いが決まっているはずです。

 ちょうど特設窓口が始まったところです。

 5階でお問い合わせください。

 相談があったことは記録しておきます」

 閻魔庁の「全館案内図」と書かれたリーフレットを受け取った。

「こちらです。

 中央のエレベータは混みますから、エスカレーターをご利用ください」

閻魔庁の奥

 

 中央のエレベーターホールの脇に、エスカレーターがあった。

 鬼籍課の列は相変わらずだが、こちらはスムーズに流れている。

 ということは、誰もが5階へ行くわけではないのだろう。

 もしかすると、地獄行きとか、天国に昇るとか、他の選択肢もあるのだろうか。

 ざわざわと話し声が、|蝉《せみ》しぐれのように聞こえてくる。

 2階は吹き抜けになっていて、3階のロビーに出た。

 広い談話スペースには、鬼と話す人や読書する人、なにやら勉強している人などがいた。

 何をしているのか、とても気になるが先を急いだ。

 窓の外には大きな別の建物が見える。

 ほとばしる炎がうねるうようなモニュメントも見えた。

 死んでからずっと気分が沈んでいたせいで、あまり周りを見ていなかった。

 もっと情報を集めておけばよかった。

 4階は「関係者以外立入禁止」と表示したドアが並ぶ。

 そして5階。

 フォーク型の、ベルトパーテーションで区切った列の最後尾についた。

 窓の外は、ずいぶん遠くまで見渡せた。

 |彷徨《さまよ》い歩く人、寝転がって休んでいる人もいる。

 天使などはいるのだろうか。

 お盆が過ぎたら探してみよう。

「次の方、6番カウンターへどうぞ」

 上に白く6と書かれた窓口へ進んだ。

 黒ずんだ肌の、貫禄ある鬼が右手の平をこちらへ向けて笑いかけている。

「どうも。

 この度はご愁傷さまでした」

 また鬼籍を確認し始めた。

「ふむ。

 『確定』が出ていませんね。

 奥へどうぞ」

 鬼が立ち上がり、ついてくるように促した。

 小さなブースに区切られている。

 その1つに入ると、メガネをかけた細長い顔の鬼がこちらを向いた。

「おかけください。

 この度はご愁傷さまでした」

 ノートパソコンで鬼籍を映し出し、鬼は頷いたり唸ったりした。

「あの、何か問題があるのでしょうか」

 「確定」がでていないと言われたので、不安を感じていた。

 もちろん意味は分からない。

忌憚なき質問

 

 鬼籍をじっくりと読み込んだ面長の鬼が、顔を向けた。

 こころなしか、深刻な顔になった気がする。

 ブースの中は薄暗い。

 デスクライトで2人の間を照らし、足元は暗くなっている。

「では、質問をいたします。

 とても重要な質問です」

「はい」

 唾を飲み込んで、肩に力を込めた。

 鬼は大きく息を吸って、目を閉じた。

「|冨家 久之《とみいえ ひさゆき》さん、現世に何か、やり残したことがありますね。

 率直にお聞きします」

 小さく|頷《うなず》いて記憶を辿った。

「現世に戻りたいですか」

 あまりに直接的に聞くので、少し固まってしまった。

 僕はまだ20歳だった。

 自分の可能性を、もっと追及したかった。

 結婚もして、穏やかな家庭を味わいたかった。

 挙げればきりがない。

「戻れるなら、戻りたいです」

 デスクライトが照らす机の中心を見つめた。

 気持ちを言葉に込めすぎると、涙が出そうだった。

 どこまでも続く死後の世界。

 人生の目的が、突然消えてなくなった。

 こんな理不尽はない。

「戻れますよ」

 抑揚のない調子で、静かに言った。

 久之は目を見開いた。

「本当ですか」

「閻魔庁は、魂を浄化し現世に帰すために存在します。

 あなたの魂は|穢《けが》れていません。

 すぐにでもやり直せます」

 鬼が立ち上がる。

 鋭く|双眸《そうぼう》が光り、久之の体は霧のように薄くなっていく。

「おめでとうございます。

 人生は、最期の眠りにつくときに価値を感じるものです。

 冨家 久之さんは、不運な最期を遂げましたが素晴らしい鬼籍を遺していらっしゃいます。

 次の人生も、素晴らしいものになることをお祈り申し上げます」

 腰を90度に折り、最敬礼をする鬼の姿が、意識の底へと沈んでいった。

盆の帰郷

 

 雲を突き抜け、現世へと戻る霊があふれている。

 ふわふわと綿毛が飛んでいくように、ゆっくりと地上を目指していく。

 久之の家の屋根が見えてきた。

 懐かしさに涙が込みあげた。

「ただいま」

 玄関に降り立ち、ドアに手を伸ばす。

 手ごたえはなく、身体が中へと吸い込まれた。

 霊体になったのだ。

 壁をすり抜けて、自分の仏壇の前に立つ。

 これが現実だ。

 遺影の写真が、他人のように見えた。

「やあ、久之くん。

 大好きなおこわを持ってきたぞ。

 たくさん食べてくれよ」

 茶碗によそったおこわ飯に、箸を立てる。

 久しぶりに見たが、食欲はまったくない。

 果物や、せんべいの包みなどが脇にたくさんあった。

 親戚のおじさんが、チーン、と リン を鳴らした。

 おわん型の|真鍮《しんちゅう》が反響して、心を|鎮《しず》める。

 手を合わせ、数珠をこすった。

「まだまだこれからだったのになあ」

 しみじみと言った。

 両親と、親戚のおじさん、おばさんたちが集まって、昼ご飯を食べ始めた。

 いとこの近況とか、昔の思い出をひとしきり語り、一人、また一人と席を立っていった。

「ありがとう。

 おじさん、おばさん」

 実家は農家だった。

 最近は兼業農家ばかりになって、小規模な農家は大変になった。

 高い機械を借りて、親戚が集まって米を作っても、利益は少ない。

 だから土地を売って、お盆に一緒に食事をするだけのつきあいになっていった。

 この付き合いも、いつまでも続かない。

 代替わりすれば、親戚同士のつきあいもなくなっていくだろう。

 一週間ほど近所を散歩して過ごした。

 思ったほどの変化はない。

 懐かしくてたまらなかったのは、遠くから想っていたからだった。

 閻魔庁では、何も説明してくれなかった。

 でもきっと、これで 冨家 久之 と さよなら するのだと理解した。

この世に生を受けて

 

 20年前、久之はほぼ標準体重で生まれた。

 つかまらずに歩いたのは1歳半のときで、喋り始めるのも早かった。

 2歳のとき溶連菌感染症で酷い下痢をした。

 家は近所でも評判の豪邸だった。

 「城」と呼ばれ、白壁に立派な鬼瓦を乗せた天守閣のような家。

 父の趣味らしい。

 祖父が資産家だったため、広大な田んぼと山も相続した。

 アパートやマンションをいくつも所有しているので、管理するだけでやっていけた。

 物心ついたときから、大人がたくさん尋ねてきて野菜、果物、肉や魚、飲み物、お菓子を持ってきた。

 炊事も洗濯も見知らぬ人が入れ替わりやってきて面倒を見てくれていた。

 聞いた話によると、身寄りのない人や、外国人労働者に格安で部屋を貸していたらしい。

 だから「ぼっちゃん」と呼ばれて、大人たちが笑顔で何でもしてくれる。

 殿様にでもなったような暮らしである。

 2歳下の弟もできた。

 玄関から長い廊下があって、その奥に炊事場がある。

 廊下を2人で駆けっこするのが、お気に入りの遊びだった。

 だが伸び伸びと暮らした幼少期は、突然暗い影を落とす。

 小学校に通いはじめた頃、家の玄関に金色の壺や、透明な円柱形の物体が置かれるようになった。

 子どもにとっては興味をそそられたが「絶対に触ってはいけない」と使用人のおじさんにきつく言われた。

 そして、父の表情が堅くなった気がした。

 ある日、母はサッカーボールを買ってくれた。

 嬉しくて庭に出て弟の|優斗《ゆうと》と一緒に日が暮れるまで遊んだ。

 家に戻ると、母の姿がない。

 おじさん、おばさんたちに聞いても知らないという。

 身体を壊していた母を心配して、近所を探し回ったがそれっきり会うことはなかった。

 父はもともと留守にする日が多かった。

 甘えたい盛りの弟は、母の面影を探して使用人のおばさんたちにだっこをせがむ。

 久之は必死に勉強して、いい子にしていれば母が帰ってくると自分に言い聞かせた。

 毎日サッカーボールを蹴り、いつの間にかリフティングをいくらでもできるようになっていた。

夏の終わりに

 

 家で久之の仏壇を守っているのは育ての、両親である。

 産みの両親を失ってから、叔父と叔母が養子縁組をした。

 遺影の下に、小さなサッカーボールのキーホルダーが供えられていた。

 大好きだったサッカーで、大学でも活躍していた。

 高校時代には「冬の国立」を目指して毎日遅くまでボールを追いかけた。

 思い出に|耽《ふけ》っていると、ドアホンが鳴る。

 やってきたのはサッカー仲間の|鹿沼 俊紀《かぬま としき》だった。

「すみません。

 来るのが遅くなってしまいました。

 久之君が亡くなるなんて ───」

鹿沼君のことは、よく話していました。

 天才的なフォワードだって」

「いやいや。

 天才とは久之君のような人のことです。

 ボールが吸い込まれるように、足に付くんです。

 ボールタッチが天才的に上手かった。

 彼がミスをしたところを一度も見ませんでした」

 しみじみと言い、遺影に目礼した。

 |蝋燭《ろうそく》に再び火をともし、線香を上げる。

 リンが涼しい音を立てた。

「また一緒にサッカーをしよう。

 俺もいつかはそっちへ行く」

 生真面目な鹿沼が言うと、本当にこっちへ来てしまいそうだった。

 高校時代、どちらがハットトリックを決めるか争ったものだった。

 久之が真っすぐに打ち込めたのは、鹿沼の眼差しに押されたせいかもしれない。

「そうそう。

 久之君は、勉強の方もトップでした。

 今から思えば、何か生き急いでいるようにも感じました」

 意外な言葉だった。

 顔を合わせればライバル意識をむき出しにしていた男が、こんな言葉を。

 他人を認められるのは、自信があるからだろう。

「僕は、法学部へ進学しました。

 久之君は人間科学部社会福祉系でしたね。

 人のため、社会のために何かをする。

 本当に、尊敬できる友人です」

没落

 

 父と母との間に何があったのかわからなかったが、母がいなくなってから異変が起こった。

 父は目に見えて痩せこけていった。

 目が落ちくぼみ、手足が|萎《しな》びてくる。

 おばさんたちが、病気じゃないかと噂をする。

 そんな中、古株の使用人であるおばさんが一緒についてくるように言った。

 着いた先は大きな瓦屋根の建物だった。

 白木の看板に「|山皇《さんこう》教」の文字を認めた。

「お父様は|蠱毒《こどく》にかかられました。

 神の使いとして、自らの命を危険にさらしてまで世の中を救おうとされたのです。

 しばらく2人のお子様をこちらで面倒を見るように仰せつかっています」

 まだ小さかったので細かいところは|曖昧《あいまい》だが、こんなことを言っていた。

 「寺」と呼ばれる施設で毎朝父のために拝み、後は近くの公園や城跡でサッカーをして遊んだ。

 父は神の加護で世の中を救う、と繰り返し言い含め小学校と寺を往復する暮らしが1年ほど続く。

 そして父は死んだ。

 この世の毒を一身に受け、神になったのだそうだ。

 葬儀は盛大に開かれ、何千人もの人が押しかけた。

 2人にとっては、辛い日々の始まりだった。

 相続するはずだった家と土地、その他の財産は差し止められる。

 家を世の中のために使用するよう、遺言を残したのだと知らされた。

 そして中学生になったとき、母の失踪宣告がなされすべてが寺に託される。

「あんたたち、|騙《だま》されてるよ。

 身ぐるみ|剥《は》がされるよ。

 逃げなよ」

 見ず知らずのおばさんに言われた。

 三度の食事も充分ではなく、小遣いもない。

 帰る家も、山も田んぼもなくなった。

 優斗はあまり口をきかなくなり、引きこもるようになっていった。

 自分たちが将来どうなっていくのか、子ども心にも不安が広がっていった。

 そんなとき、育ての親になる叔父がやってきた。

「久之、優斗、うちの子になるか」

 幼い頃から度々顔を合わせて知っていた。

 にこやかに一緒に遊んだり、だっこしたりしてくれた。

 寺の人たちは信用できない。

 気づいたときには手元に何もなかった。

最期の別れ

 

 幼い頃から、順を追って人生を思い返していた。

 弟は高校へ進学するとすぐに亡くなった。

 寒い冬に、マラソン大会に向けた練習中に突然死したのだった。

 またドアホンが鳴る。

 今度は高校の後輩である、|高地 菜緒《こうち なお》だった。

 近所に住んでいたので、何度か一緒に帰ったこともある。

 またリンの音が高らかに響いた。

「私、何回か一緒に帰ったり、お弁当を作ってあげたりしたんです。

 頼りになるお兄ちゃんって感じで、スーパーマンみたいな先輩でした」

 ほんのりと頬を赤くして、目が潤んでいた。

「久之先輩は、勉強もスポーツも一番で、それなのに全然鼻にかけなくて凄い人です。

 女子から、人気があったんですよ」

 義父がニヤリとして、

「そんな話をちらほら聞いたな」

 などと言う。

 社会福祉関係の仕事をしたいと話したこと、サッカーで国立へ行きたいことなど夢を話した思い出が吹き出てきた。

 短い人生だったが、誰よりも濃密に生きることができた。

 太く短く、駆け抜けたのだった。

 こうして訪ねてきて、思い出話をしてくれる友人がいる。

 輝く人生は、ほんの一瞬の不注意で星の彼方に消えていった。

 交通事故だった。

 寒い冬の日、アルバイトに間に合わせようと原付バイクのスロットルを絞った。

 その瞬間、凍結した路面に横滑りし、反対車線のトラックに吸い込まれた。

 閻魔庁で見た光景は、人間の|性《さが》を表していたように思えた。

 人生を記した「鬼籍」を吟味し身の振り方が決まる。

 どうやら久之の魂は穢れなかったようだが、自分を産んだ母はどうなったのだろうか。

 まるで心の声が聞こえたように義母がポツリと言った。

「久之、あんたの産みの母は詐欺の被害に遭って、借金を独りでしょって中国に身を隠したんだ。

 絶対に子どもたちに言わないでくれと念を押されていたのだよ。

 本人が一番|辛《つら》かったろう。

 恨まないでやっておくれ」

 おぼろげにしか知らなかった母の消息を、義母は知っていたのだ。

 今となっては、資産はすべて山皇教が売り払ってしまったが。

夏の先に

 

 台風が2つ日本列島をかすめた。

 蒸し暑い空気を北へと押し上げ、コオロギの合唱が響くころ。

 女の子が産まれた。

 すくすくと育ち、立ち上がるのも喋り始めるのも早かった。

 本を読んでもらうのが好きで、計算や漢字の勉強を小学校に入る前から進んでやった。

 驚いたことに、サッカーボールを与えるときゃっきゃっと喜んで蹴り始めた。

 始めから「サッカー」を知っていたかのように。

 一戸建ての家のリビングを縦横無尽に走り、ボールを片時も離さなかった。

「|岩渕 麗《いわぶち うらら》」

 高校の入学式。

 さっそくサッカー部を探す。

 女子部員はいないそうなので、一緒に練習する女子部員を探すことになった。

 マネージャー希望だった|冨菜 里香《とみな りか》という生徒が、一緒にやってもいいと言ってくれた。

 フィールドに立つと、麗の足はボールに吸いついて行くように正確なタッチを見せる。

「私ね、サッカーボールと一緒に育ったの。

 兄弟みたいなものなのよ」

 天才肌の麗と、しっかり者の司令塔である里香は女子サッカー界で話題になった。

 そして勉強も2人は手を抜かなかった。

 麗は社会のために仕事をしたいと思い始めた。

 里香は法学部に進むために必死で勉強した。

 いつも何かに背中を押されているような気がする。

 魂の声が、夢の中で訴えてくる。

「人生は素晴らしい。

 精一杯魂の|赴《おもむ》くままに生きてください」

 サッカー雑誌のコラムを見ていた里香が聞いた。

「ねえ、|冨家 久之《とみいえ ひさゆき》っていう天才ストライカーの話、知ってる」

「交通事故で亡くなったんだっけ。

 ワールドカップ日本代表の|鹿沼 俊紀《かぬま としき》のライバルだったんだよね」

「2人とも、文武両道で凄いよね」

 などと話がはずむ。

 「生まれつきの才能」というものがあるとすれば、魂の純度を指すのかも知れない。

 何かに本気で打ち込むとき、魂の声が聞こえはしないだろうか。

 

 

この物語はフィクションです