魔法のクリエイターと言われる理由、お教えします

人は知る。人は感じる。創作で。

【小説】星の宿り木

 

街は|蜃気楼《しんきろう》のように|朧《おぼろ》げなシルエットを現し、小高い山々の|麓《ふもと》にうっすらと|霧《きり》を帯びて、幽玄な空気に包まれている。

 幻の街と呼ばれる「|薄紅町《はくこうまち》」は、誰が呼んだかレムノシティなどと言う者もいる。

 幸せを見失った魂が|彷徨《さまよ》い、街角に|佇《たたず》む人間を中へと引き込んでいく。

 その中心部にはいくつか飲食店があった。

 色あせた看板と、壊れたネオンサインがむき出しになった外観からは、商売っ気が感じられない。

 ところどころ塗装が|剥《は》げ落ち、|埃《ほこり》っぽい窓から薄暗い店内が見えた。

 入口に「ヴァニッシュ」と書かれた電飾があるカフェには、客が見当たらない。

 陽が差し込まないためか、ライトグレイの壁が、湿っているように感じられた。

 往来をゆっくりと歩いていた、若い女が店の前で足を止めた。

 ブレザーをきちんと着こなしているが、全体的に薄くて地味なトーンの街に溶け込む、というよりも存在自体が透けているようだった。

 薄い唇と、細く切りそろえた|眉《まゆ》が、都会的な印象を与えている。

 カフェの中を覗き込むようにしていたが、近づいてくる影に気づいて後ずさる。

 大きな身体を滑るように進め、人を寄せ付けない威厳を備えた男は、女の前で立ち止まった。

「奈巳、今日は1人か」

 女は小さく|頷《うなず》いた。

 |一瞥《いちべつ》しただけで、目を伏せた男はカフェのドアをすり抜けて中へと消えていった。

 しとしとと、小雨が地面にシミを作り始めた。

 半透明の女の身体を素通りして、地面を打つ水はコンクリートの色を濃くしていく。

 霧のようだった|雫《しずく》がしだいに大きくなり、ポツポツと音を立てて地面を洗う。

 さっと一陣の風が吹き、雨粒とともに女の姿をかき消す頃には、一面に湿った街を打つ音が高く響いていた。

 

 列車は耳をつんざく轟音とともに暗い闇に包まれた。

 山に沿ってうねるように走るローカル線は、時折短いトンネルを抜け、見下ろすとゾッとするような崖に沿って駆け抜ける。

 遠くから見れば、トンネルや鉄橋が山間部にちりばめられた、箱庭のような美しい風景だが窓から見える景色も耳を突く音も、達也を恐怖させた。

 都会の|喧騒《けんそう》に比べれば、ダイナミックな感情を起こさせる分だけマシかも知れない。

 そう思ってワンデーパスを買い求め、列車に身をゆだねて来たのだった。

 見渡す限り山に囲まれ、雲が峰を覆い、樹の騒めきを|掠《かす》めて疾走する。

 確かに自然に|溢《あふ》れた風景だ。

 だが、期待していた物とはかけ離れていた。

 コツコツと神経質に窓枠を左の人差し指で叩き、右腕は肘を乗せてだらりと下げたポーズで、肩に|顎《あご》を乗せるようにして眉間に|皺《しわ》を寄せている。

 まるで、安い定食屋の、まずい料理でも食べるように、不機嫌に口を尖らせて窓の外を凝視していた。

 揺れに抵抗しながら姿勢を維持していると、足と脇に|痺《しび》れを感じ始めた。

 踏みしめていた足を緩め、両手をだらりと下ろすと頭を垂れ、ため息をつく。

 思ったよりも、相当につまらない。

 日常を離れると、何か良いことがあるとでも思っていたのだろうか。

 大きく落胆し、車内の床に目をやると、あちこちに濃いシミがあることに気づいた。

 ガムのシミや、引っ掻き傷のような物もある。

 ずっと臓物を突き上げられ、身体を強く揺すられていると、何もしなくても疲れがたまる。

 座り続けた尻には、圧迫による鈍い痛みが走る。

 身体の軸をずらし、頭を横に傾けると少し楽になった。

 駅が近づいてきたようだ。

 車内アナウンスで、聞いたことのない地名が、聞き取りにくい声で告げられた。

 ずいぶん前から、耳を素通りしていた車内放送を集中して聞いてみると、ひどく|鳩尾《みぞおち》が締め付けられた。

 落胆した気分と相まって、普段は感じないような乗り物酔いが思考を支配した。

 立ち上がった達也は、ドアを目指して手すりを伝い、必要以上に急いで移動する。

 ドア横の、銀の手すりの上端に右手の親指をかけると、浅く握って身体を支える。

 窓の外を横へ飛んでいく樹の残像を眼で追うと、腹にたまった不快感が増した。

 のろのろとホームに入っていく列車のドアを蹴とばしたい衝動を押さえ、開くのを待った。

 

 厚い雲に阻まれながらも、薄明るい陽射しを落としていた太陽がいよいよ西に傾いた。

 地表付近を薄明るくして、青い街並みを浮かび上がらせる。

 |煤《すす》けたような低い貸しビルの窓がほのかに明るくなり、通りを照らす。

 街灯が、一斉に真っ直ぐな道を描き出した。

 奈巳が壁の前に、影のように|佇《たたず》むと先ほど会った青木のことを思い出していた。

 今日は1人か、と尋ねた他は何も言わなかった。

 だからこそ、彼の真意はそこにしかない。

 つまり、誰かを連れてこい、と言っていたのだ。

 身震いした奈巳は、通りに人の気配がないか、注意深く聞き耳を立てた。

「1人くるわ」

 突然耳元で声がしたので、目を見開いたが視線は彼方へやったままである。

「未彩《みさ》、本当に ───」

 つぶやいた彼女の隣りで、同じくらいに透けた若い女が同じ方向を凝視していた。

「皇帝によろしくね」

 意味ありげに口元を引き上げ、奈巳の耳元でささやくと、彼女の身体は一層薄くなり、闇に溶け込んでいった。

 なおも目を凝らしていると、彼方に黒いシルエットが風で揺らぐかのように頼りなく動くのを認めた。

「まさか」

 今度の人間は、どうも様子がおかしい。

 まっすぐ道に沿って歩いてくるのだが、尖った光を帯びて空気を揺らしている。

 山の端に隠れた太陽の名残りで、雲を白くしていた光も、ずいぶん弱くなった。

 霧の中から|朧《おぼろ》げに姿を現した人間の影は、手前に薄く長く伸びている。

 雨脚はいく分弱まり、小雨がポツポツと地面を打ち、波紋を幾重にも描いていた。

「レムノシティ ───」

 近づいてくると、人影に角張った骨格が感じられた。

 顔がはっきりと認められる距離になって、男だとわかった。

 青白い顔に、|爛々《らんらん》とした|鳶色《とびいろ》の瞳。

 すこし茶色いマルーンの髪が、シルエットに柔らかい印象を加えた。

「駅で誰かが言っていた。

 この街が、そうなのか」

 若い男が、言葉と|繋《つな》いだ。

 体重を後ろにかけ、胸を張った奈巳がコクリと頷いた。

「そう呼ぶ人もいるわ。

 見失った物を探しに迷い込む街。

 もしよかったら、案内するけど」

 緊張した顔のまま、男が近づいてきた。

 |踵《きびす》を返すと、真っ直ぐに連なる街灯の彼方を|顎《あご》で示し男を促した。

 

 ホームに降りた達也は、両腕を広げて空気を肺の中いっぱいに吸い込んだ。

 電車の中の空気は淀んでいた。

 たくさんの人間を運ぶ列車には、さまざまな痕跡がこびりついている。

 手すりには脂が残り、そこかしこに人間がまき散らした思念が形を帯びて残る。

 自分自身が、何を求めているのかも分からなくなって、薄暗い雨雲を眺めていた。

「レムノシティ ───」

「この先へまっすぐ進めばいいのね」

 案内板を指さした男女の話し声がする。

 不可解な響きに興味を|惹《ひ》かれ、達也は案内板の前に仁王立ちした。

「これのことか」

 街らしい表示は他になかった。

 色あせた字で「薄紅町」と書かれたところに、建物の四角い粒が集まっている。

 行くあてもないので、とりあえず街を目指すことにした。

 駅舎を出ると、小雨がパラつき始めたので折り畳み傘をリュックから取り出す。

 手元のボタンを押すと、蛇腹状だった傘が小さな音を立てて広がり、達也の姿を隠す。

 濃紺のジャンプ傘は、直径が小さいため充分ではないが小雨程度なら凌ぐことができた。

 粉っぽい地面を濡らし、水の匂いが立ち込めてくると雨粒が大きくなってくる。

 いつの間にか雨雲が厚みを増して、辺りが薄暗くなっていた。

 白いラインがほとんど剥げていて、道の境界線が|曖昧《あいまい》だったが、街灯が点いたおかげで真っ直ぐな行先を辿ることができた。

 傘に当たる雨粒が、ポツポツと耳を打つ。

 足元が濡れていたが、気にしなかった。

 低い貸しビルや、古びた民家を何件か過ぎた。

 それにしても、人の気配がないな、などと思っていると壁際に立つ若い女が視界に入ってきた。

 ブレザーを着こなし、顔つきに影を感じるその女性は、何というか、影が薄いというよりも、本当に透けていた。

 不気味な街の雰囲気と、霧に煙り雨に濡れたビルに合ってはいるが、どうにも違和感が|拭《ぬぐ》えない。

 拳を硬く握りしめ、一度唇を噛みしめてからゆっくりと歩を進めた。

 その女は、街を案内してくれるという。

 見知らぬ街で、親切にする人間を信用しない。

 達也は都会育ちだったから、直観的に距離を取った。

 その若い女がこの街の住人ではない気がした。

 山の中にいれば、身なりにここまで気を遣わないはずである。

 警戒の色が消えないまま、彼女の後をついて行った。

 

 女は奈巳と名乗った。

 肩を打つはずの雫が通り抜け、地面に吸い込まれていく。

 遠くの街灯が彼女の胸の向こう側にはっきりと認識できる。

 必要以上に会話をしようとはしてこない。

 どこへ行こうとしているのかも告げない。

 しびれを切らした達也は、棘のある声を出した。

「なあ、初対面なんだしどこへ行くのくらい ───」

 言いかけて口を|噤《つぐ》んだ。

 大きな男の影を認めたからだ。

 無人の道を行くかのように、奈巳は一定の速度で滑るように進む。

 霧がかかり始めた街は、灯りをぼんやりと広げ、道へ向けて|幾筋《いくすじ》も長い光の帯を投げかけた。

 うすぼんやりと浮かび上がる人影が、徐々に輪郭をくっきりとさせる。

 不意に、背中を冷たい汗が伝う。

「なんだ、あれは ───」

 達也の頭の中に渦巻く得も言われぬ不快感が、息を詰まらせた。

 男の黒目の周りを、白目がぐるりと囲み、目を見開くというよりも眼球が飛び出しているようだった。

 異様なほど顔の横幅が広く、鼻が削げ落ち口元が頬まで裂けて歯茎が露出していた。

 金縛りにあったように動かなくなった彼を、奈巳が振り返って言った。

異形の提督は、あなたが敵意を見せなければ何もしてこないわ

 なおも釘付けになった達也の額に、汗が噴き出した。

 20メートルほど先の路地で、大きな猫のような動物が低い唸り声を上げていたのだ。

 しびれを切らした奈己が、引き返してきた。

「レノムシティには、クトゥルパム神話に出てくる神獣や悪魔が住んでいるの。

 いちいち驚いていると、インビジブル・ジャッカルの機嫌を損ねるわ。

 先を急ぎましょう」

 奈巳の手が伸びてくる。

 達也の顔の前で五指を目一杯に開き、視界を|遮《さえぎ》った。

 反射的に身を|躱《かわ》そうとしたが、異形の提督の姿を透かしているだけだった。

「どうなってるんだ」

 思わず舌打ちをしそうになったが、不気味な男と猛獣を刺激してはいけない、と思い直すと。奈巳の後を追い始めた。

 

「星が、騒めいていますな」

 闇の占星術師、|神山 和博《かみやま かずひろ》は右手を心臓の下あたりで上向きに返し、右足を一歩下げる姿勢で|恭《うやうや》しく目を伏せた。

 窓際に設えた、暗い木目調のテーブルに、甲高い羽音をさせて虫が集まってきた。

 円を描いてくるくると回り、頭を外へ向けたまま横滑りしたり、後ずさりしたりしながらお互いに一定の間隔を保ち窓からの灯りに照らされていた。

「おお、|冒涜虫《ぼうとくむし》が何かを訴えていますな」

 先ほどから口元を引きしめたまま外を眺めていた|青木 雅樹《あおき まさき》が、少々緊張した面持ちで顎をしゃくる。

「かしこまりました」

 店の奥に下がった神山は、カウンターの裏側を覗き込む。

 そこには暗闇にビロードを丸めて打ち捨てたような塊が小刻みに震えて丸まっていた。

 ピンと伸びた三角形の耳が、先ほどからブンブン音を立てている冒涜虫の方を向いてピクピクと動いていたのだ。

 塊の中央から金色に輝く粒が二つ、突然現れ、また消えた。

 そして次に身を起こした暗黒獣・|凶猫《デビルキャット》が神山の身体に飛びついたかと思うと、するすると肩まで登り、目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。

「ふむ、星が北から来るのが見えました。

 いかがなさいますか」

「奈巳が向かった方角だ。

 ならば待てばよい」

「私が、玄関先で迎えましょう」

 窓の外には夜の帳が降り、霧に煙る空気をドアの隙間から室内に入るのを感じる。

異形の提督のやつめ、きちんとドアを閉めていかないから

 小さく舌打ちをすると、神山は手を伸ばして手前に大きく振り戻す。

 すると触れてもいないドアがパタンと音を立てた。

「さて、何を探しに来るのでしょうか。

 星に導かれた人間は」

 尖った顎を突き出すと、ゆっくりと歩を進め壁をすり抜けていく。

「少しは骨のある人間に出会いたいものだな」

 ふんと鼻を鳴らし、神山は油断なく周囲を見回すのだった。

 

 視線の先に「ヴァニッシュ」と書かれた看板を認めると、奈巳が手で制した。

「まずは、ここへ来た目的を話してください。

 闇の占星術師が待っています」

「おい、さっきから何を言っているのだ。

 闇だのと ───」

 言いかけた達也は、背中を走る悪寒と同時に電撃が走ったかのような一撃を受け、口をパクパクさせたままひっくり返ってしまった。

 首を返して見上げた達也の眼前に、金色の目をした黒猫を肩に乗せた男が見下ろす姿がはっきりと見えた。

「さあ、目的を言え。

 お前は、なぜここへ来たのだ」

 ギロリと睨む男は不気味なオーラを放っていた。

 沈黙を許さない、という眼で射貫かれ|咄嗟《とっさ》に達也は口走る。

「ぼ、僕は人生がつまらなくなって旅をしています」

「ほう」

 足の方に、もう一人精悍な男が現れて返事をした。

「青木様」

 驚いた声を上げた奈巳は、口に手を当てビルの影へを消えていった。

「続けろ。

 レノムシティに、何を求めて来たのだ」

 神山の語気が強くなる。

 緊張に耐えかねてかすれた声を、やっとの思いで絞り出した。

「気分が悪くなって、たまたま降りた駅でレノムシティの話を聞きました。

 行くあてもないので、とりあえず来ただけなんです」

 最後は涙声になっていた。

 先ほど脇をすり抜けてきた「異形の提督」が口元を歪めて、のそりと現れる。

 |涎《よだれ》が糸を引いている。

 飛び出した目が爛々と、達也の腹のあたりを凝視している。

「食うんなら、レバーは俺によこせ」

 インビジブル・ジャッカルが、牙をむき唸り声を立てる。

 そして「闇の占星術師」の肩に、ちょこんと乗っかっていた黒猫が、ひらりと地面に降りると金の双眸を大きく開き、こちらを睨みつけた。

 いつの間にか戻ってきた|山﨑 奈巳《やまさき なみ》が、傍らにいる2人の若い女に言った。

「私、この気味悪い猫に食われて死んだのよ。

 未彩はジャッカルで、美智はハエ共だったわね」

 |郡山 未彩《こおりやま みさ》は露出した肩を自分で抱き、ブルブルと身体を震わせた。

 ブンブンと羽音を立てて頭の上を飛ぶ冒涜虫を手で払う|千川 美智《ちかわ みさと》は、|忌々《いまいま》し気に上空を睨む。

「こいつも、殺して幽霊にするのかい」

 そんなやり取りを聞いた達也は肩を大きく揺すり、腰を抜かしながらも後ずさりして逃れようともがく。

「もういい。

 つまらん奴だ」

 青木が|踵《きびす》を返すと、異形の人間と獣と虫たちが一斉に飛び掛かった。

 

 鼻先に|柑橘《かんきつ》の香りがして、顔に汁が飛んできた。

 首のあたりに痛みを感じて肩を|捻《ひね》りながら、|唸《うな》る達也にひらひらと手ぬぐいをかざす中年女が覗き込んだ。

「大分うなされていたねえ」

「奈巳さん ───」

 身体を伸ばしてキョロキョロと見回す達也の目に写るのは、ローカル線のボックス席ばかりである。

 ガタンゴトンと、規則的な音がレールの継ぎ目を通る。

 窓の外には緑に包まれた山々と、土と太陽の香り。

 また鉄橋の音が響くと、頭が少し冴えてきた。

「夢 ───」

「みかん、食べなよ。

 気分が悪いときは、甘酸っぱい果物が良いよ。

 私、|山﨑 奈巳《やまさき なみ》。

 でこっちが、|郡山 未彩《こおりやま みさ》と、|千川 美智《ちかわ みさと》。

 袖すり合うも他生の縁ってね」

 差しだされたみかんは、すでに丸ごと剥かれていた。

 小腹が空いていた達也はひと掴みにして口へ押し込んだ。

「おお、良い食いっぷりだねえ、兄さん」

 手を叩いて笑う3人は、同じボックス席を占領して、親し気に笑いかけてきた。

「兄さん、東京から来たんだってねえ。

 うなされて口走ってたよ。

 都会はつまらないって」

「こっちはどうだい」

 額に手をやると、べっとり脂汗をかいていた。

「レノムシティ ───」

 思わず口を突いてでたのは、悪夢のような街の名だった。

「なんだい、兄さん。

 そこは何人も消えていった、気味の悪い街だよ。

 行くのかい」

 大きく|頭《かぶり》を振った達也の眼は再び見開かれた。

「はっはは。

 怖い夢の正体はそれかい。

 それじゃあ、行かないよねえ」

 3人は腹を抱えてどっと笑うのだった。

 

 電車の轟音よりもうるさい中年女3人が、向かい側の席にみかん一袋を残して降りて行ってしまうと、それはそれで寂しさを感じてしまうのだった。

 窓枠に肘を突き出し、考え込むようなポーズでまた外を風景を眺める。

 夢に見た街とはまるで違う、明るい太陽に照らされた山が突き放すように達也には見えた。

 そのとき、ポケットのスマホが振動する。

 兄の「|高峯 雄一郎《たかみね ゆういちろう》」の名が表示されていた。

 呼び出し音3回で取ると、

「達也、今どこにいる。

 電車に乗ってるのか」

 環境音から、呑気に旅をしているのがバレバレだった。

 顔を|顰《しか》め、言い訳を考えていた。

「とにかく、すぐに戻ってきてくれ。

 交通費も給料もはずむから、できるだけ早く。

 会計の仕事が大量に来たんだ。

 猫の手も借りたい状況なんだ」

 雄一郎は法律事務所を経営している。

 年度末決算や確定申告の時期には会計の仕事も舞い込んで、毎年こんな騒ぎになって電話してくるのである。

 何の摂り得もないフリーターの達也が暇だろうと思って、こちらの都合も聞かずに、である。

 少し苛立つが、目的ができただけマシな気がした。

「ああ、分かったよ。

 新幹線代も出るんだろうね」

「おお、さすが我が弟だ。

 ロケットに乗っても払ってやるよ」

 次の駅で降りると、上り電車に乗り換え、今度は外の風景も眺めずスマホでニュースを読み始めた。

 忙しい日常は、山々や断崖絶壁のような刺激はないが、どこにいても自分の気持ちは揺れなかった。

 電車の規則正しい音と、草と太陽と土の匂い。

 それ以外は大した違いがない、などと思うのだった。

 帰るまでにも、何度か兄から電話がかかってくる。

 今か今かと気を揉んでいるのだろう。

「レノムシティ ───」

「なんだそれ。

 ゲームの話か何か」

 兄の前で今回の旅の収穫を頭に描いたら、口から出ていた。

「職場を転々としていると、婚期も逃すし老後も心配になるだろう。

 お前も資格でも取って社員として働いて欲しいのだが」

 そんな話を兄は毎年忙しい時期になると達也に説いて聞かせる。

 いつもの煙たい説教だが、今年は少し考えてみようなどと思うのだった。

 

 

この物語はフィクションです