最後の日
いつものように、帰宅してダイニングチェアに座ろうとした。
テーブルの真ん中に紙切れがある。
走り書きで何かが記されているようだった。
横目で見たガラクは、怪訝な顔をしてため息を一つつく。
何不自由なく暮らしてきた。
望むものは何でも買ってもらえたし、必要以上にねだりもしなかった。
幸せ ───
考えてみれば、でき過ぎた幸せだった。
「ガラクへ
父さんは、しばらく会えなくなる。
母さんもだ。
後のことはレックスという親切なお爺さんに頼んである。
頼って行くように。
いつもお前のことを考えている。
ガラクは父さんと母さんの命だ。
辛いことがあっても、自分を大切にして生きてほしい。
父ラルフより」
人差し指と中指を伸ばし、箸のようにして紙をつまんだままテーブルに肘をついた。
またため息が出た。
「何の冗談だろう ───
面白くないけど」
ドアのチャイムが鳴った。
弾かれたように立ちあがり、玄関に向かう。
ガチャリとドアの鍵が開いた。
内側からは何もしていないのに。
つまり、外にいる何者かが開けたのだ。
ガラクは数歩後ずさりをした。
ドアノブが音を立て、ドアの隙間から光が漏れる。
|眩《まばゆ》い陽光が玄関を闇に変えた。
「ガラク ───」
腰を抜かしtあガラクは後ろに両手をついて地面に座り込んだ。
目を見開き、黒いシルエットを凝視したまま硬直している。
「あなたは ───」
やっとの思いで声を絞り出した。
外敵を排除する術などもたない彼女は、観念するしかなかった。
「私はレックスだ。
お父さんとお母さんがいない間、面倒を見るように言われている。
お金をたくさん預かっているし、荷物をもって一緒にきてくれ」
言いながら玄関口に上がり込んできた。
後ろ手にドアを閉め、口元を緩めた。
「お父さんとお母さんは ───
なぜ知っているのですか」
「古い知人でね。
2人とも良く知っている。
一度も顔を合わせたことがないから、怪しむのは無理もないけど」
「この家にいてはいけないのですか」
「実はね ───」
レックスは口ごもった。
後頭部に右手をやって、靴箱に目をやる。
「犯罪に巻き込まれている。
ここにいては危険だ」
犯罪 ───
危険 ───
非日常的な言葉を、瞬時に理解できなかった。
まごついていると、レックスがしびれを切らした。
「さあ、一刻を争うんだ。
置き手紙に書いてあったはず。
着替えと洗面セットをカバンに詰めて来てくれ」
一瞬視線をドアに移し、外を窺う仕草をした。
何かが迫っている。
恐ろしい何かが。
運命の日
ゼツは、いつもにこやかで優しい母だった。
その日も、ガラクにそっと笑いかけてから家を出た。
車を飛ばして、プラハに入る。
朝3時。
プラハの朝はとても冷え込んでいた。
暗い街の灯は、道に沿って点々と伸びている。
中心の旧市街まで歩いて行く。
火薬庫の向かい側に、大きなデパートがある。
間を大通りが走り、路面電車のレールがある。
まだ街は眠っている。
至る所に、チンピラが|屯《たむろ》していて|颯爽《さっそう》と歩くゼツをジロジロ見ていた。
決して治安がいい街ではない。
夜から早朝は観光客など1人も見かけない。
旧市街を奥へと進むと、モルダウ川が流れいている。
途中で折れ曲がり、中心街を包むように美しい景観を形づくる。
カレル橋が見えてきた。
真四角に荒々しく切り取られた石が敷き詰められている。
橋の構造は脆弱なため、年々変形している。
橋の|欄干《らんかん》に寄りかからないようにと表示がある。
美しい旧市街が後ろにある。
そして向こう岸に巨大なプラハ城。
街全体が調和している。
まるでテーマパークのような楽しい街は、闇の中にある。
美しい夜景のプラハは暗黒街の顔も持つ。
ガラクは、知らずに育った。
この世の闇を知らずに。
できることならば、知らないまま生きてほしい。
無数の罪を犯した、暗黒街のゼツ。
今日、葬り去られる。
後ろに人影が迫ってきた。
ヒタヒタと、足音を立てずに歩く男はゼツの背後で足を止めた。
「ゼツ。
ガラクは良い娘だ。
俺たちの娘とは思えないほどに ───」
風がゼツの結んだ髪を|煽《あお》る。
「ラルフ ───
人生は長さじゃない」
ゼツの視線は旧市街を捉えた。
ふっと笑い、脇に仕込んだホルスターから「ベレッタPX4・ストーム・サブコンパクト」を取りだした。
「懐かしいな。
持ってきたのか」
「こいつは、新しいモデルだよ。
道具は選ばない主義でね。
シールドでも何でもよかったんだが、ついゴツイ奴を選んでしまったよ」
ゼツは銃口を旧市街へ向けた。
続けざまに3つ発射してから、両手を上げた。
「過去の因縁からガラクを俺が守る。
お前は消えることでガラクを守る。
そういうことだな」
ラルフは懐から短剣を取りだす。
月明りに青く光る刀身が露わになる。
ゼツは黙ったまま目を閉じた。
安らかな顔だった。
無防備な彼女の胸に、短剣が突き立てられる ───
身体はゆっくりと反転し、モルダウ川へ落下した。
ラルフも後に続いた ───
沈黙
「あの ───」
ガラクは何かを尋ねようとした。
だが、レックスは人差し指を口に当てる仕草をする。
何度繰り返しただろうか。
家を出る前に、公共交通機関で移動すると言っていた。
長距離移動するときには、車より足がつきにくいらしい。
ガラクの住まいはオーストリアのウイーン近郊の小さな町にあった。
中世の趣がある、美しい町だった。
誰もが家族のようで、ガラクはたくさんの友だちと遊んだ。
観光客がたくさん訪れるので、土産物屋が多い。
小高い丘の上に展望台があって、良く登ったものだった。
だが突然の別れが訪れた。
20歳になって家を出るのは不自然ではない。
独り立ちしたという意味では ───
行先もハッキリ告げないまま、引っ張り回される気分だった。
聞きたいことは山ほどあるが、他人が聞いているから話もろくにできない。
自由席は満席になっている。
窓の外は、オーストリアを出てからほとんど変化がなくなった。
遠くに教会を見つけると、ちょっぴり心が和む。
ガラクは信者ではないが、よく遊びに行った。
教会の周りに草原が広がり、荒野が遠くに見える。
糸杉がゴシック教会のフォルムと連なって、ギザギザのアクセントをつける。
あまり高い木もないし、すぐに風景が荒野に変わってしまうのだった。
ユーロ圏ならばシェンゲン協定によって、パスポートなしで移動できる。
パリからフランスの新幹線TGVに乗り換えた。
パリの灯は優しく2人を迎え、送り出した。
最高時速320キロでスペインのバルセロナまで行ける。
その先にはAVEでマドリッドにもつながっている。
変わり映えしない風景に退屈して、前方にある表示を睨みつけた。
時速298キロと表示されている。
297、299と行ったり来たりして、300キロにならない。
なぜなのだろう。
つまらない事実が意識を支配した。
初対面の老人は話しかけるなと言う。
外は刺激がないし、車内も殺風景だ。
突然連れ出されたせいで、疲れていた。
電車内で若い女が居眠りなどするものではないが、眠気が襲ってきた。
レックスという老人は、妙に落ち着きがある。
ときどき周りに鋭い眼を向けているほかは、朗らかである。
そして、隣にいると安心できた。
この人に頼っていればいい。
父さんもそう書き置きしたのだし、信用できる人だ。
父と母に何が起こったのか、胸騒ぎが止まらない。
犯罪とはどういう意味なのだろうか。
考え続けたせいか、頭もぼんやりしていた。
隔離街ファリーゼ
バルセロナに着くと、駐車場へ向かった。
相変わらずレックスは周囲を|窺《うかが》いながら歩いている。
「疲れたろう。
もう少しの辛抱だ」
黒塗りのコンパクトカー。
オーストリアから乗った車と似ていた。
助手席に乗ったガラクは、ドアを閉めると|堰《せき》を切ったように喋り始めた。
「私の両親に何が起こったのですか」
疑問の核心だった。
行先などどこでもいい。
両親は無事なのか。
いつ会えるのか。
笑顔が脳裏を何度もよぎっていた。
「詳しいことは話せない ───」
重苦しい沈黙が呼吸を苦しくした。
ずっと考え続けたせいか、思考が整理されていた。
ガラクは冷静だった。
「父も母も、|聡明《そうめい》です。
きっと訳があってこのようなことに」
レックスはちらりと助手席に目をやった。
「ラルフは君のことを、聡明な娘だと自慢していたよ。
信じているのだね。
家族とは、いいものだ」
景色が、真っ暗になった。
深夜に近い。
街灯もないところでは、どこを走っているのか見当がつかなかった。
「レックスさんは1人ですか」
表情から孤独を読み取っていた。
「まあ、ラルフとゼツが子どものようなものさ。
血のつながりはないがね。
だからガラク、君は私の孫だよ。
この老体に鞭打って、何があっても守り抜く」
カタルーニャ地方に入った。
小高い丘を中心として小さな小屋が立ち並ぶ。
ある者は都市部から流れ、ある者は雑居街に身を潜める。
「隔離街ファリーゼ」は訳アリな人々が、ひしめき合う街だった。
ベージュの岩場の間にレンガ造りなどの簡素な家がある。
仮住まいと言った方がしっくりくる住居である。
その一角に車を止めた。
「君が住んでいた町よりも大きいが、訳アリな人が流れては出ていく街だ。
『隔離街』の名の通り、世間から離れて身を隠すには良い街だ。
ただし、どんな人がいるかわからないし、聞かないのが暗黙の掟だ。
小さいが、自分の家だと思ってくつろいでくれ」
レックスの家は崩れかけのようなレンガ造りだった。
そうとう年季が入っている。
中に入ると、コンロと戸棚、テーブルとイスが並んでいる。
奥に2間あって、シャワーと洗面所がセットになったユニットバスがついている。
ふう、と大きく息をつきレックスは椅子に座った。
オーストリアからフランスを経由してスペインまで、1400kmを一気に往復したのだ。
老体には|堪《こた》えただろう。
「歳は取りたくないなあ。
すぐにもう一度行って来いと言われたら、命がけだな」
少し休んでからレックスが床を触った。
床板を外し、中から何かを取りだしている。
「ガラク。
これは大事なものだ。
君に渡すために用意しておいた。
いつも身につけておくように。
風呂に入るときには脱衣場の、自分に近い場所へ目立たないように置くんだ」
小型のホルスターと拳銃だった。
「これは ───」
「『ベレッタPX4・ストーム・サブコンパクト』だ。
護身用に持っていなさい」
ガラクはためらった。
「私、銃なんて ───」
「初めて持つかな。
大きな街に出るときにも、持っていた方がいい。
君も20歳になったのだから、自分の身を守る術も知るべきだよ。
明日からさっそくエアーガンで訓練しよう」
暴漢
翌日、悲鳴を聞いて目が覚めた。
まだ目がショボショボしていて、頭に|靄《もや》がかかっている。
昨日の疲れが抜けきっていないようだ。
「あれ、レックスさん」
もぬけの殻だった。
外に出てみると、3人の男と対峙するレックスの姿を認めた。
「ガラク!
出てくるな」
男から視線を外さずに、物陰に隠れている。
ただならぬ雰囲気を察知したガラクは、寝室へ戻りベレッタを持って玄関から外を|窺《うかが》う。
拳銃など扱ったことがないので、映画で見たように持っているだけだった。
「レックス!
ゼツが死んだというのは本当か!
奴を殺して名を上げようと思っていたのに ───」
ガラクは耳を疑った。
「ゼツ ───」
母の名を呼んだのだろうか。
名を上げるとは ───
にらみ合いはしばらく続いた。
1㎏にも満たない拳銃でも、ずっと構えていると手が重くなってくる。
銃声が響く。
1人が発砲したのだ。
続けて2発。
1発は玄関に向けられた。
至近距離で壁が爆ぜる!
「きゃっ!」
驚いて尻もちをついた。
背後で物音がする。
恐怖のあまり、身体が硬直して振り向けない。
後ろから前腕部で顎をかち上げ、首を絞められた。
「ぐううう……」
男は容赦なく前腕で顎を締め上げてくる。
このままでは首をへし折られる!
「へっへっへ……
こんな小娘を隠してやがったのか」
男の腕を掴み、外そうとしたがまったく歯が立たなかった。
意識が段々と遠のき、小便を漏らす。
「ああ、かわいいお姉さん。
すまねえなあ。
伝説の殺し屋レックスが睨んでちゃあ、ゆっくり遊んでられねえんだ。
死んでくれや」
視界が真っ白になった。
「ああ、私は死ぬんだ ───」
|涎《よだれ》と涙と鼻水も垂れ流し、哀れな姿になった。
ふわふわとした意識の中で、微かに銃声が聞こえた ───
戦士の血
目が覚めると、見知らぬ天井があった。
「ガラク ───」
レックスだった。
顎が軋む。
首に熱い物を押し込まれたような違和感と痛み。
ジンジンと首の脈打つ感覚が生々しい。
そうだ。
私は朝、首を絞められて ───
「銃を扱ったことがあったのか」
言葉の意味が理解できなかった。
少しずつ意識がハッキリとしてきた。
「私、生きていますか?」
「ああ。
大丈夫だ。
まだ痛むだろう。
無理に喋らなくていいよ」
優しく語りかけた。
ガラクは、薄れゆく意識の中で暴漢の頭を撃ち抜いたらしい。
同時に外の2人を倒したレックスが駆けつけ、病院に運んだ。
徐々に記憶が蘇る。
不思議と恐怖はなかった。
「君の行動は正当防衛だ。
深く考えなくていい。
警察には私から話しておいたよ」
死を感じた刹那の記憶が、鮮明になってきた。
「私 ───
最後の力を振り絞って拳銃を持ち上げて、男の額に押し付けたんです。
ゆっくりと。
そして引き金を引きました。
自分の手じゃないみたいに動いたんです。
首の骨が軋んで ───
折れる寸前でした。
何も見えなくて、銃声が小さく聞こえました」
驚くほど冷静に状況を把握していた。
修羅場を乗り越えるためには、銃の腕前よりも度胸よりも「死を目前にしたときの冷静さ」が不可欠である。
文字通り死線をくぐるとは、死ぬことに他ならない。
暴漢を鮮やかに倒しても、殺し屋としては三流である。
一流ともなれば、死中に活路を見いだすのだ。
「ゼツの名を、母の名を呼んでいました。
名を上げると ───
どういう意味でしょうか」
レックスは俯いて目を閉じた。
ガラクは平穏無事に生きてほしかった。
だが、ゼツもレックスも名が売れすぎている。
いずれは真実を知ることになるだろう。
ゼツの思い、ラルフの苦悩を知るレックスは頭を抱えた。
そして、
「本当のことが一番いい ───
家に帰ったら、すべて話そう」
暗黒街の死神
首にシップを貼り包帯を巻いた痛々しい姿だったが、すぐに歩いて帰れるようになった。
レックスの肩を借りながら、寝室へ横になった。
「いいかい。
落ち着いて聞いてくれ。
ゼツは私と同じ殺し屋だった。
主にマフィアの幹部が標的だ。
暗黒街の死神・ゼツと言えば、そこらのチンピラは皆震え上がる。
だから、家族を守るために命を捨てたのだ ───」
ガラクは無表情だった。
薄々は気づいていた。
昨日の状況から容易に推測できる。
だが、黙っているレックスを見て生半可ではないと思っていた。
「ガラク。
これだけは知っておいてほしい。
ゼツは君を世界中の誰よりも愛している。
君を守るためなら、笑いながら命を投げ出すのだ」
頭の中は、不思議なほどスッキリしている。
いつも豪快に笑っていた母。
愛しているのはガラクも一緒だった。
「エアーガンで、訓練するんでしたよね。
明日からお願いします。
私、母が見た世界を少しでも知りたいんです。
もう、隠さないでください ───」
目頭に涙がにじんだ。
レックスの目は優しかった。
「血は争えないな。
気丈な娘だよ。
ゼツを|彷彿《ほうふつ》とさせる。
じゃあ、今夜はゆっくり休みなさい」
寝室の電灯が消えると、闇が世界を支配した。
心に闇を抱えていた母。
毎日葛藤しながら笑っていたのだ。
罪の意識にさいなまれていたのだ。
生きているうちに、真実を語って欲しかった。
私も母のように強くなりたい。
会いたくてたまらなくなった。
了
この物語はフィクションです