魔法のクリエイターと言われる理由、お教えします

人は知る。人は感じる。創作で。

【小説】ニイトブレインSAKUI

 

 平日の昼間、職のない|作井 岳《さくい たけし》は肩身の狭い思いを抱えて車を走らせた。

 ガソリン代を気にして、ちらりとメーターに目をやる。

 最近めっきり寒くなって来たので、車を停めて日向ぼっこを決め込んでも良いが、どこで誰が見ているかわからない。

 それよりは買い物を装ってスーパーにでもいた方がマシだ。

 ガラガラの駐車場に車を停め、一息つくと外へ出た。

 外気は冷たいが、陽射しを受けていれば暖かかった。

 ショッピングモールの入り口で待ち構えるように、宝くじ売り場に「宝くじの日 お楽しみ抽選」と白地に赤で大きく書いてあった。

 ポケットに突っこんでいた手に、紙くずが触れていることに気づき引っ張り出してみる。

 レシート数枚と、外れの宝くじが1枚出てきた。

 せっかくだからと売り場に差し出してみると、なんと、1等が当たっていたのだ。

「当たったのか ───」

「お客さん、今日はツイてますね。

 ツキが来たときは逃さず勝負してはどうですか」

 自分が、よほど運に見放された顔をしていたのだろう。

 中年のパートらしい女性が言った。

 どうせならと、スクラッチ20枚と交換して、その場で10円玉を取り出した。

 一枚目を削ると、9つの窓が全部同じ絵柄だった。

「5000万円当選です」

 続けてすべて削った。

 なんと合計6枚1等だったのだ。

 にわかには信じられなかった。

 受け取りは銀行でと告げ、当選したスクラッチをポケットの中に突っ込んだ。

 

 みずかみ銀行の窓口には、スーツ姿のサラリーマンが10人ほどスマホやパソコンを片手に忙しそうに待っていて、自分など後回しでも良いような気持ちになった。

 ATMで済ませられない用事のある人間は、会社関係の取り引きや融資の相談くらいだろうか。

 予想以上に自分が浮いてしまって、落ち着かない。

 ロビーに座っていると、近づいてきた男がいた。

「岳、こんなところで何をしている」

 硬い声を出したのは父親の洋一郎だった。

「父さん、そっちこそ何しに来たんだい」

 家では仕事の話をあまりしない父は、少々たじろいだようだった。

 小さな町工場を経営しているのだが、社長の息子のくせに、と風当たりが強くなるので岳からすれば仕事の話など進んでするものではなかった。

「俺は、仕事だ。

 金を下ろすなら、ATMでできるだろう」

 |眉間《みけん》の|皺《しわ》を深くして、首を|傾《かし》げる。

「作井さん、2階へどうぞ」

 窓口ではなく、奥にいた男が声をかけた。

 父は無言で階段ホールへ向かう。

 家では見せない、深刻なムードを漂わせて。

「あの、作井さん」

 窓口から岳に声がかかる。

「もしかして、作井製作所の ───」

「ああ、息子だよ」

 父が驚いて振り返った。

 窓口の女性が、奥へ行って上司となにやら話していた。

 そして岳は、洋一郎と共に2階へと促された。

 

 銀行の2階は、来客用に|設《しつら》えてある。

 壁には高そうな絵が架けてある。

 そして黒革のソファとガラスのテーブル。

 それに比べて作井製作所の社長室は、スチール机と作業机があるだけだった。

 父はチラチラと岳の方を気にしながら、|額《ひたい》の汗を拭った。

「融資課長の|福家 哲次《ふけ てつじ》です」

 テーブルの脇に回り込んで、両手で名刺をつまんでよこした。

 ビジネスマナーなど、ろくすっぽ知らない岳は、

「はい」

 返事だけをして、片手で受け取った。

 福家の顔がニンマリとして、岳を凝視したので薄気味悪い。

 ソファに、どっかと腰かけると、

「本日は、融資のご相談でございますね」

 両手を組んで膝に置き、ズイと洋一郎に作り笑いを向けた。

 頭を掻いて、眉間の皺を深くした父は、もう一度岳を見る。

「実は、資金繰りが今月も厳しくなりまして。

 先月大量発注を受けた、ボルトの支払を先延ばしにして欲しい、と言われたのです。

 今月はボルトの代金を当て込んでいたものですから、給料の支払にも影響する始末です」

「なるほど。

 取引先は ───」

「内藤洋行です」

「支払が|滞《とどこお》った理由は何ですか」

「キャスター付きテーブルが好調なので、勢いに乗って新商品に取り組んだために、開発費用が|嵩《かさ》んだそうです。

 まあ、うちでも同じようなことは何度かありました。

 新商品は|水物《みずもの》ですから、ヒットしたらラインナップを増やす気持ちは理解できます。

 長い目で見れば、今すぐ債権回収するよりは、新規事業を伸ばしてもらいたいと私も考えます」

 顎に拳を当て、|瞑目《めいもく》して福家は考え込んだ。

「お話は理解できました。

 ですが、先月も先々月も資金不足でしたので ───」

 しきりに|唸《うな》る。

「そこを、なんとか。

 長い付き合いじゃありませんか」

 父は、極度に緊張していた。

 給料が払えない、という話は本当だろうか。

 ニートの岳でも分かる深刻さである。

「それに ───

 息子さんに、さきほど窓口で同意を得ていますので、お話します。

 実は、宝くじが当選されたのです」

「えっ」

 両目が見開かれ、ゆっくりと父がこちらに顔を向けた。

「いくら」

 大きく|瞬《まばた》きをした父の、鼻息まで聞こえるほど、顔を近づけてきた。

「3億」

 今度はのけ反った。

「本当なのか」

「にわかには信じがたいかも知れませんが、本当です」

 福家がつけ加えた。

 

 岳の眼には、強い光が宿っていた。

 普段はぼんやりとして、ヨタヨタ歩いている若造が、にわかにしっかりしたように感じられる。

 あまりのことに、2人とも|俯《うつむ》いたきり黙り込んでしまった。

 重苦しい沈黙が、応接室を支配した。

「あのさ、父さん。

 これだけは言っておく」

 おずおずと顔を上げ、息子の顔を見上げた。

 両眼が揺れ、|怯《おび》えの色を帯びた。

「3億円の使い道は、僕が決める。

 誰にも指図はさせない」

 ハッとして、福家も顔を上げた。

「指図だなんて、誰にもできませんよ」

 場の空気が一変した。

 岳が支配してしまったのだ。

「金を持ってるからって、僕は何も変わらない」

 洋一郎は、|喉《のど》を鳴らして|唾《つば》を飲んだ。

「|怨《うら》んでいるわけじゃないが、父さんは僕をサラリーマンにしたかったんだろう。

 それがいけなかったんだ。

 僕にも自分の人生がある。

 ニートになってしまったんじゃない。

 自分で選んだんだ。

 そして、ニートだから3億円を引き寄せたんだ」

 洋一郎は何度も|頷《うなず》いた。

「父さんが、お前を馬鹿にしたことがあったか」

「直接言ってないけど、父さんが作った会社は僕を蔑んでいる。

 僕に言わせれば、毎日決まった時間に会社へ行って、週末は飲んだくれているサラリーマンが立派だとは思えない」

「差し出がましいですが、私からも言わせてください。

 会社の経営者は、みんなお父様のように苦労されています。

 足しげく銀行へ通い、頭を下げていらっしゃるのです。

 なぜだと思いますか」

 福家は真っ直ぐに姿勢を正して岳を見つめた。

「しゃらくせえんだよ」

 テーブルに拳を振り下ろした。

 岳の目つきはさらに鋭くなる。

「社員の生活が懸かってるんだろう。

 家族の生活が。

 僕も父さんに食わせてもらってる。

 同じように、みんな家族を養っている。

 だからどうした。

 僕は自分勝手な子どもだってのかよ。

 そりゃあ、会社が|潰《つぶ》れれば、今の生活ができなくなるだろうさ」

「岳、落ちつけ。

 誰も金をよこせとは言ってないぞ」

 父が|遮《さえぎ》った。

 大きく息を吐いた岳は言った。

「とにかく、考えさせてください」

「そうですね。

 融資の相談に同席して頂いた時点で、失礼だと認識するべきでした。

 息子さんは、ただ者ではないのかも知れませんよ。

 お話を続けてもよろしいでしょうか」

 ため息交じりに、岳は頷いた。

「融資の稟議書を作成して、回しておきます。

 私は、経営状態が悪いとは思っていません。

 でも、決めるのは私一人ではありませんので」

「分かっています。

 では、私はこれで」

 洋一郎が立ち上がると、岳も立とうとした。

「息子さんは、お待ちください」

 引き留められて我に返った。

 

「いくつかお伝えすることがございます」

 専用口座に当選金を用意すること。

 高額当選者へのレクチャーがあること。

 資産運用について。

 悪徳業者への注意喚起。

 大まかに説明を受けた後、福家が出て行き、辻川と名乗る女性行員が現れた。

投資信託はいかがでしょうか。

 株や債権をプロが運用します」

「いらない」

「老後のために、年金になる保険もございます」

「いいって」

「NISAで税制上優遇措置を受けられる投資 ───」

「いい加減にしろ、銀行は財布を握ってるからな。

 金が入ると、途端にすり寄って来るんじゃねえよ。

 うまい話が、向こうからやって来るわけがない」

 机を叩いて立ち上がった。

ニートには、ニートの流儀がある」

 

 社長室のデスクにドカリと腰を下ろした洋一郎は、内線で専務を呼んだ。

 北見専務が小走りでやってくると、作業机に着いて向き合った。

「で、融資はいかがですか」

「そっちは恐らく問題ない。

 それより岳が、3億円当てたんだよ」

「なんですって」

 北見は無駄なぜい肉のない身体をピンと伸ばしてから、身を乗り出してきた。

 顔立ちが整っていて、知性を感じさせる男が、驚きを|露《あら》わにしていた。

 銀行での|顛末《てんまつ》を話すと、

「なるほど。

 ガクらしいと言えば、らしい反応じゃありませんか」

 岳は、社員から「ガク」と呼ばれていた。

 ニートで、社長から見放されているとか、様々な噂を流されていたが、不思議と放ってはおけないと思われていたのだ。

「しかし、蔑まれているなんて、心外ですね。

 被害妄想じゃありませんか」

「多分な、俺たち会社勤めの人間から、無言の圧力を感じてるのさ」

 気難しい息子を心配して、ため息交じりに言うのだった。

「私で良ければ、お力になりましょう」

「北見さんを見込んで、金の使い道を間違えないように教えてやって欲しい」

 生え際の辺りを搔きながら、頷いて瞑目した北見は思考を巡らせていた。

 

 岳は作井製作所の休憩室を訪れた。

 工場では、忙しそうにフォークリフトがコンテナを運んで出入りしている。

 目の前の事務室との間を、書類袋を脇に抱えた人が行き来していた。

 少し離れた場所に食堂がある。

 工事現場のようなプレハブの簡素な建物に入ると、広い食堂の脇に、乱雑にパイプ丸椅子が置かれたスペースがあった。

 自動販売機が3つあって、500mlペットボトルのお茶を120円で売っていた。

 総務部の女性社員の松崎が、ぼんやりとして入ってきた岳に視線を合わせて小さく会釈をした。

「松崎さん、今月の資金繰りが厳しいって本当かい」

 単刀直入に岳が切り出した。

 腕組みをして唸っていた彼女は、眉間の皺を深くした。

「ちょっと、いろいろあってね」

 ため息をついて、床に視線を落とした。

「いろいろって ───」

「やあ、ガク。

 どうだい、一局」

 聞き返そうとしたところで北見が、ぬっと顔を突っこんできた。

「ちぇっ。

 北見さんか」

 2人は将棋仲間だった。

 アマ有段者同士、将棋会館で出会ってからの仲である。

「松崎さんと、何を話してたんだい」

 役員室でパチパチと、駒音が|忙《せわ》しなく響く。

 北見が指した瞬間に手を伸ばして岳が指すので、お互いに意地になって速くなっていく。

「強いねえ」

 嘆息した北見は、椅子にひっくり返って天井を仰いだ。

「会社、資金繰りが悪いんだって」

 歳は岳の方が一回り若いのだが、棋力は上である。

 微妙な関係ができ上っていた。

「経営は、将棋よりも遥かに難しいのだよ。

 正直、経営状態は悪くない」

「じゃあ、なんで銀行に融資を相談するんだい」

「銀行を立てていた方が得だからだよ。

 融資をすれば儲かるのは」

「銀行か ───」

 

 執務机についた北見は、書類の束に判押しを始めた。

 社長室よりも狭くて、3つの机が並んでいる。

 隣りの社長室の様子がわかるように、ドアは開いていた。

「それで、どうするつもりだい」

「どうって」

 立ち上がった岳は、窓に手を突いて外を眺めた。

 風が強くなってきた。

 さらさらと|銀杏《いちょう》が音を立て、黄色い葉を歩道に積もらせていく。

「ガクは頭が良いからね。

 僕らが驚くような、何かをするのだろう」

 漠然とした野望をずっと描いていた。

 大金を稼ぐとか、社会的地位を得るのとは違う、自分にしかできない仕事がある。

 会社の歯車の一つではない何か。

「会社に入る気はないのだろう」

「まあね」

 会社員というイメージが、岳の心に影を落としている。

 ただの反発ではない。

 自分のすべてを賭けられるものを求めて、|彷徨《さまよう》日々に浸っていた。

 人生に正面から対峙して社会に対する疑問を、ぶつけていたい。

「だったら、ブレーンになったらどうだい」

 岳は目を丸くして振り向いた。

「僕が」

「そうだ。

 株を買い集めて、会社を単独で動かせるようになれば、ガクが好きなようにできる。

 会社員にならなくても、発言権を得られるのだ」

 小さなころから、父に連れられて遊びに来ていた岳の、あどけない顔を北見は思い出していた。

 子どもができなかった自分にとっては、実の子どものような存在だった。

 判押しを続けながら、岳が会社の中枢にいる姿を思い描いた。

 できることなら、作井製作所を継いで欲しい。

 社長も同じ思いだと確信していた。

「株を ───」

 つぶやくと、部屋を出て行った。

 

 それからというもの、岳は自室に籠り調べ物を始めた。

 会社法を調べ、株や議決権、そして作井製作所と取引関係のある会社の状況など、集めた情報をファイルにまとめた。

 社外の株主からすべての株券を買い集め、社内からも買っていく。

 瞬く間に買い集めた株券は、3分の2を超えていた。

 そして社長室を訪れ、洋一郎と北見と向かい合ってソファに腰を下ろした。

「父さん、そして北見さん」

 襟を正して、静かに瞑目してから言った。

「僕が所有する株式は、3分の2を超えました。

 実質的に、会社を乗っ取ったことになります」

「そうだな。

 俺と北見の譲渡分もあるが、経営権はお前がすべて握った」

 2人は、まるで他人ごとのように言った。

 洋一郎は岳の肩に手を置いた。

「やりたいように、やってみろ」

 挑むような目で射貫いた父の眼は、穏やかな水面のように澄み切っていた。

 

 旋盤を回し、ボルトを切る音が間断なく耳を打つ。

 パートの中村は、機械の一部のようにリズミカルに部品を取り出してはでき上ったボルトと取り替えた。

 背後には、デスクライトを照らして細かい傷や歪みを調べる二宮が、しきりに唸っていた。

「どうかしましたか」

 主任の古谷は、笑顔を作ってパートさんの脇から部品を覗き込んだ。

「最近、部材にムラがある気がして。

 一応基準は満たしてるのですけど ───」

 見た目では、歪みは認められない。

 一つ手に取ってじっくりと光を当てていく。

「何をしているのですか。

 すみません。

 僕はブレーンの作井岳です」

 3人とも手を止めて、振り向いた。

 この人が、噂の社外取締役ブレーンかと、顔を凝視する。

「えっと、立場上会社のことを知らなくてはいけないので、こうして歩きまわっているだけです。

 気にせず続けてください」

 中村は旋盤を回し、二宮は部品に手を伸ばした。

「検品で、ちょっと」

「気にせず話してください。

 何でも知りたいのです」

 部材の違和感を感じる程度のことだが、確かに光の干渉でできたモワレが|歪《いびつ》に見える。

「熟練工が、少し違和感を感じた程度ですので、気にしなくて良いと思います」

「分かりました。

 お時間がある時に、こちらを記入してください」

 一人一人に、アンケートの案内を手渡した。

 工作機械が所狭しと並べられ、騒音が大きい。

 町工場は、どこも似たようなものだろうが、快適な職場とは程遠かった。

「ガク、ここにいたのか」

 北見専務がやってきた。

 早速、社内を見て回りたいとは言っておいたのだが、放ってはおけないとばかりに付いてきたのだ。

 眉根を寄せて、工作機械を眺める岳は何をするつもりだろうか。

 専務が腕組みをして、後ろにピッタリついてくるので、社員はみんな振り向いて奇異な視線を注いだ。

 

 社長室へ戻ると、洋一郎が来客に対応していた。

「内藤洋行の|小野澤 慶《おのざわ けい》です」

 岳も、できたばかりの名刺を差し出して交換した。

 内藤洋行は事務機器の大手メーカーで、長年の得意先である。

 銀行で、父が内藤洋行のキャスター付きテーブルについて話していたことを思い出した。

「ブレーンですか ───」

 名刺を眺め、眉根を寄せて何事か思案顔になった。

「息子さんに、株を大量に譲渡されたとか」

「そうです。

 社員ではありませんが、ブレーンとして経営に参加させることにしました」

 事情を察した小野沢は、長年の取引関係について、詳しく話してくれた。

「最近は、新商品の開発をしていまして、作井さんのところのボルトを使わせていただいています」

 

 工場で耳にした話が、喉につかえたような違和感を持って、首をもたげてきた。

 思い切って、聞いてみる。

「我が社のボルトの品質に、満足されていますか」

 小野沢は首を|捻《ひね》り、意図を掴みかねる様子だった。

「作井さんのところのボルトは品質が安定しています。

 一度、他社の物を使ったときには、不良品が出て回収費用がかさみましてね。

 長い目で見れば、確かな技術力のあるところが一番ですよ」

「うちのボルトは、コスト的にどうでしょうか」

 さらに踏み込むと、困惑の色が|窺《うかが》われた。

「まあ、うちのボルトはまずまずだというところだ」

 答えに窮した様子を察して、洋一郎が口を挟んだ。

 小野沢が席を立ち、部屋を辞すると洋一郎は判押しを始めた。

「ボルトが、何か気になったのか」

「検品のところで、部材にムラがあるのではと言ってたから ───」

 軽く頷いただけで、判押しの手は続いていた。

 

 その日の夕方、決裁書類を片付けた北見が社長室にファイルを運んできた。

「それで、アンケートの方はどうかな」

 口角の片端を上げて、岳の方を振り向く。

「どうもこうも、反応は薄いですね」

 職場環境を整えるために「この工場で生きていく。大切なものを抱いて。」とキャッチコピーを打ち、社内調査を始めたのだが、みんな忙しさと遠慮があって、意見は上がってこない。

「このコピー、好きだけどねえ」

「そうだな。

 社員を満足させる工夫か ───」

 洋一郎も判押しの手を止め、腕組みをして唸った。

「僕が見たところ、誰もが忙しそうで、声をかけにくいのですけど」

 会社なのだから、しょうがないと言えばそれまでである。

 だが、岳の描く理想の先にあるビジョンにも、北見は興味があった。

「内藤洋行が開発しているテーブルって ───」

 ボルトの話に気を取られていたが、事務機器開発とオフィスのインテリアを手がけている会社だった。

「コストと品質を考えるばかりではなくて、今までにないオフィスと工場を考えたらどうだろう」

 こうして、企業の在り方と労働の概念に変革をもたらす、新時代のブレーンの第一歩が踏み出されたのだった。

 

 

この物語はフィクションです