現代資本主義社会の大原則は契約自由の原則である。
契約の原則では、
「売ります」
「買います」
と口頭で言えば契約成立となる。
最近交通事故にあった人が、
「ごめんなさい。大丈夫ですか? 」
といわれて、
「大丈夫です」
と言ってしまった。
この言葉に強い拘束力はないが、加害者はそのままにして行ってしまう。
意思表示をした、という既成事実があれば契約成立になる、という習慣がつくと想像力がなくなってしまう。
事故を起こした場合、その時は大丈夫でも後遺症が出ることもある。
たとえ被害者が「大丈夫です」といっても、安心して立ち去っていいとは思えない。
この後どうなったのかはわからないが、契約とモラルは全く違う問題である。
モラルがある人は被害者が何と言おうと、立ち去らないはずだ。
そもそも、事故の加害者が、
「大丈夫ですか? 」
と聞くことにも配慮がない。
自分に都合のいい答えが「イエス」になる聞き方はいけない。
「痛いところはありますか? 」
「病院へ行きますか? 」
「すみません。警察を呼びます」
というのが正しいのではないだろうか。
別の例をあげると、ギブアンドテイクの関係ではないことにも契約の原則を当てはめがちになる。
例えば、教育が最たる例である。
セミナーを受けて、何か得をしないと散々に文句をいう場合だ。
お金を払ったのだから、必ず何かを身につけさせてくれると、受け身になっては効果半減である。
学校でも、
「苦しい思いをして、我慢をして勉強したのだから、その分いい思いをしないとおかしい」
という考えが浸透している気がする。
勉強を我慢してする、と思っているところは仕方ないとして、いい思いができるとか、幸せが必ずやって来る、という期待に応えられるかは自分の問題だ。
この問題の背景には、小さい子どもがコンビニなどへ買い物に行ったときに、
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
と定型的に「お客様」扱いされることが当たり前になっていることもある。
だから学校でも自分がお金を払った「お客様」だと思ってしまうのである。
ギブアンドテイクの契約ではない事柄に、歪が来ていると思う。