魔法のクリエイターと言われる理由、お教えします

人は知る。人は感じる。創作で。

印刷工場の裁断機

 印刷工場で「ギロチン」という恐ろしい機械を見た。

 大部数印刷をするときには、あらかじめ全紙という1m以上ある大きな紙に割付をして印刷する。

 それを裁断する機械である。

 紙を置くと、下から空気が噴射されて少しだけ浮く。

 軽く押してやると重たい紙の塊が動く。

 端に合わせて、スイッチを押すと、四方から裁断される。

 その様子がまさに「切り刻む」という感じで、ズバズバズバッと映画のチャンバラのような鋭い音を立てるのである。

 そして職員の方が、

「指一本落とすと一人前なんてね…… 昔は言いました」

 というものだから、本当に指を落とした気になった。

 雰囲気を察したのか、

「私は裁断したての紙には、絶対触りません。紙の切れ味で指を落とすかもしれませんから」

 とたたみかけてきた。

コンピュータ将棋

 コンピュータと人間の5番勝負をネット配信した「電王戦」は、今では伝説の対局といわれるようになった。

 プロ棋士が、いかに真剣に将棋と向き合っているかがわかる場面が随所にあった。

 ある棋士は引き分けに持ち込んで男泣きした。

 恥も外聞もなく、全力を出し切って負ける棋士

 勝ったが、全身脂汗をかく棋士

 コンピュータを何百台もクラスタリングしたモンスターマシンとも真剣勝負が行われた。

 ラストの対局は映画にもなった。

 自分はリアルタイムでずっと見ていた。

 将棋の歴史や文化が語られ、コンピュータとどのような距離感をもって、生きていけばいいのかも真剣に話し合われていた。

 人間が指す将棋は見向きもされなくなるのか、プロ制度が破綻するのかなど、興味深い話題を、正面から話していたことが印象深い。

 そして、プログラマーは新しい技術を惜しげもなく世の中に公開することにも心を打たれた。

 技術を発展させることだけを優先して、既成の利益を独占しようとしないのである。

 また将棋の棋士は、勝負を超えてお互いの読み筋を検討し合う「感想戦」をいつも対局後に行う。

 このように勝ち負けの一時的な感情に溺れないところが素晴らしいと思った。

達成

 達成するためには目標がいる。

 ゴールを設定していないと、ゴール出来ないのは当たり前である。

 だが、そこが不明瞭で、無力感を感じる人が多い。

 何をすればいいのかわからず、悩んでいる人の悩みなど聞いてはいられない。

 「漠然とした悩み」に答えはない。

 問題を解決するために、まず問題を整理しなくては始まらない。

 問題を正しく認識するには、冷徹な観察眼が必要になる。

 できない人にはなかなかできないが、精神的に成長して、認知の歪みが少なくなれば、おのずと問題解決能力が上るものだと思う。

 認知の歪みは、思ったよりも大きいものである。

 自分の体の認識を考えてみるとわかりやすい。

 利き手の右腕と、反対の左腕は、認知の度合いがかなり違う。

 その感覚を図にすると、左手が小さな図になる。

 この認知の歪みが少なくなることが、精神的な成長と比例しているのだ。

 そして漠然とした問題に対処するために、自力で立ち向かわなくては成長しない。

奇跡

 奇跡のような、という出来事が、今年も何度かあった。

 自分が奇跡のようなことしたこともある。

 それは、自分にとって何でもないことだったが、物凄い偉業をやってのけたという眼で見られて、こっちは内心冷めていた。

「こんなことくらいで…… 」

 専門家が、専門分野のことを淡々とやると、周りの人からは目を見張るようなことに見えてしまうのだろう。

 世の中に奇跡はないと思っている。

 充分に調べていなかったり、準備していなかったことを、やってのける人がいると、大袈裟に見えるのだ。

 また奇跡は偶然の要素もある。

 認知できない部分があるから神秘性を感じるのだから。

 「偶然と必然」の問題は、個人の認識の問題だ。

 深く考えない時「偶然」というだけで、いつでも現実は必然である。

生きていること

 半世紀くらい生きると、友人、知人から訃報が多くなってくる。

 昔の思い出を考えることも少なくなった。

 ときどき昔の友人と連絡を取っても、まとまった時間がなかなか取れない。

 いつも、途中で失礼することになる。

 そんなことをしているうちに、いなくなってしまうことがある。

 自分が生きていることのありがたみを改めて感じるし、生きているだけで幸せなのだと思う。

 事故にしろ、病気にしろ、不注意や不摂生が原因ではないか、と思うと死はいつも身近にあり、命のはかなさを感じさせられる。

 そして子どもが成長して行くにつれて、生きているだけで、普通の人生を歩むだけで奇跡のようなことだと思うようになった。

巨人のように大きな人

 近所に物凄く背が高い人がいる。

 その人は、手足がとても大きい。

 靴は、フランスパンかと思うほど、

 違和感がある大きさだ。

 こんなに大きいと、着るものは特注だろうし、

 食べる量も多そうだ。

 その人は、小さな軽自動車に乗っている。

 車から出てくると、

 その大きさが、

 車との対比で際立って見える。

 人ごみにいても、

 たやすく見つけられる。

 電車に乗るときは頭をぶつけないように、

 ずっとかがんだままだ。

 満員電車でも、方から上が出ているから、

 息苦しくないかも知れない。

 足は大きいから、踏まれる危険性が高いだろう。

 こうして大きな人の視点で考えると、

 世界が違って見えるのかもしれない。

最近あったちょっといいこと

今週のお題「最近あったちょっといいこと」

自分の小説が、投稿サイトのランキングで上位に入ったことである。

毎日何かしら書いているので、

喜びも、憂鬱も、小説の中身から来ていることが多くなった。

登場人物が危険な目に遭うと憂鬱になるし、

展開が明るくなると気分も明るくなる。

だから、小説が評価されると良い気分になる。

最近はこんな感じである。

転生

 もし転生できるとしたら、何に転生したいだろうか。

 自分は鳥になってみたい。

 近所のお寺によく、野バトがいる。

 飛び立つ時の様子を見ると、

 こんなに大きな体が、

 こんなに小さな羽で飛ぶんだな、

 と思った。

 ハトはかなりマッチョなので、重量が結構ある。

 羽を相当速く羽ばたかせているので、

 飛ぶことができる。

 間近でよく見てみると不思議だな、と思った。

 そして、自分がこんな風に宙に舞ったらどんな気分かな、

 と想像してみた。

 空を飛べたら気持ちよさそうだ。

リモコン

 エアコン、テレビ、照明、firestick、湯沸し器、トイレ、インターホンのリモコン、太陽光発電を確認するリモコンなどがうちにある。

 考えてみると、リモコンでできることは、スマートホームで音声操作ができる。

 うちにはいつも誰かがいるので、あまり必要を感じなかった。

 音声だけで操作できるスマートスピーカーも4台ある。

 車のキーも最近はリモコンだし、エンジンもかかる。

 そういえば、スマホのアプリに、リモコンがあった。

 登録すると、リモコンの代わりにつかえるものだ。

 こんなにいろいろあったのかと、今更ながらに驚いた。

法律

「日本で一番偉いのは? 」

 答えは法律である。

 内閣総理大臣も、

 天皇も、

 大企業の会長も

 格闘技の世界チャンピオンも、

 宗教の教祖様も、

 どんな権威も縛ることができる。

 法律は、社会の秩序を守るためにある。

 身近な、明文化されていない不文律には、法的根拠がある場合が多い。

「昔からの習慣、社会的な慣例」

 は法的拘束力を持つ。

 つまり、広義の法である。

 あらゆるトラブルを解決するために、日々見直され続けているため、法律を知るということは、ずっと勉強し続けることである。

 法律を勉強するときには、必要な部分だけをやればいい。

 肝心なことは、実際の事例を調べることだ。

 身近によくある法務は、クレーマーに対抗する事例とか、個人情報の管理とか、民法の原則で、契約約款を見直すことである。

 ちなみに暴力など有形力を伴わない場合は、暴行罪が適用される可能性がある。

 暴言を書き込む場合がそれにあたる。

 被害者がメンタル不調を起こして、通院すれば充分成立しうる。

 創作では、コラムにもした著作権、中でもキャラクターの訴訟が圧倒的に多いし、知っていると応用範囲が広い。

 個別的に条文を覚えることよりも、法律感覚を身に着けることが肝心である。

 細かい条文は後で調べるとして、問題の本質を法律で整理できる。

料理

 シェフの世界のことは、あまり馴染みがない。

 本気で料理人になろうとする人は、相当な努力をすることはドラマなので知っているが、実態はよく知らない。

 現代社会では、男女ともに料理など家事ができなくてはならない。

 共働きが増えたし、専業主婦の方が貴重な存在になった。

 自分は元々料理を苦にしない。

 1人暮らしの時には、毎日何かを作って食べていた。

 まあ、冷蔵庫にある食材を適当に煮たり焼いたりして混ぜることが多くて、謎の料理が出来上がった。

 味付けさえ、しくじらなければ、美味しく食べられるものが出来上がる。

 あとは火が通る順番を考えていればいい。

 毎日やっていたので、野菜や果物の皮むきには自信がある。

 結婚してからは、妻が専業主婦をしてくれているので、まったくやらなくなった。

 たまに皮むきをすると、

「できないのかと思ってた」

 と言われる始末である。

 できなそうな顔をしているのだろうか。

サッカー

 小学校、中学校では休み時間に皆サッカーをやっていた。

 サッカー漫画もたくさんあって、必殺シュートを真似したりして遊んだものだ。

 少年漫画にスポーツ根性モノが、今より多かった。

 地域のクラブチームが盛んだったので、県のオールスターチームに入るような選手が身近に3人いた。

 彼らのシュートは威力が普通ではなくて、手で受け止めると押し切られてゴールに腕ごと持っていかれた。

 自分はよくゴールキーパーをしたので、集中していないと殺人シュートを身体に受ける羽目になる。

 だからタイミングを見てシュートを打たれる前にボールを蹴り上げにいった。

 こんな必死なサッカーをやっていた。

写真

 写真には、独特な文化がある。

 カメラマンは、工学的な知識と感性を合せ持っていなくてはならない。

 そして何より、体力がいる。

 写真を批評する会が開かれると、どんなカメラで、レンズは何で、露出とか技術的な話題が多い。

 被写体をどう撮るかに苦心するはずだが、そこよりまず機材のことを話題にするのである。

 自分はここに違和感を感じることがある。

 写真に芸術的な価値を認めるのだから、機材が主な話題になるのはおかしい。

 例えば、有名な巨匠の絵画を見るときに、筆の種類を話題にしているようなものだ。

 その点、鉄道写真の方が、被写体と構図にこだわりを感じさせる。

 だが、写真家は鉄道写真を嫌う人が多い。

 ジャンルが違うというのである。

 家族のスナップ写真に近いということのようである。

アイデアは個人の頭の中にある

 皆で話し合ってアイデアを出そうとすることにはメリットがある。

 出たアイデアを組み合わせたり、加工して新しい展開を考える場合には話し合いも有効である。

 だが画期的な、今までにないアイデアは、話し合いの中からは生まれない。

 イノベーティブな、キレがあるアイデアは、話し合うと潰されていくことが多い。

 インターネット上に出てくる、瑞々しい新規性のあるアイデアは、毎日更新されるため、思いついたことにすぐに取りかからないと、

「あっ! 先を越された! 」

 となってしまう。

 インターネットを情報源として、いつも新しいアイデアを求めていると、現実社会との乖離を感じずにはいられない。

 新しいビジネスモデルは日々生まれていて、次々に若い起業家によりベンチャー企業が起業されていくなかで、個人のアイデアの重要性を感じる

期待し過ぎない

 期待値は、自分で設定するものである。

 何を期待するのかがまず問題になる。

「長編小説を書く」

 を目標とすれば、明確だが、長編小説を書ききるのは並大抵ではない。

 自分なら、

「1万字書く」

 とまず設定する。

 そして、

「3万字」

「8万字」

 と目標を段階的に上げていく。

 最近は考えなくなったが、

「書き始める」

 という目標も大事である。

 構想が不完全でも、始めてしまうと、頭が回り始める。

 思考はコンフリクトしやすい。

 アウトプットと、インプットがバランスいいときに、良い循環が生まれる。

 自分が書いたものを、文字にすれば客観的に見ることができるようになる。

 客観視できれば、修正点が明確になって、すぐに直せるようになるのである。